人間じゃなくてもいい
「私は人間でしょうか……」
目の前の人は私のことばを、私の口腔内より発せられた空気の振動を、聴覚を通して感知したことによって得た音としての情報をその明晰な頭脳のはたらきをもってして母国語である言語、しかも単純な単語の組み合わせに過ぎない内容として完全に理解しているだろうに、壁のように静止して。
たっぷり十秒。
五秒ほどは瞳までつむって、時間を無駄にした。
私はあたまのなかでその人を一回×してしまってからもう、罪の意識に後悔をしている。
だがお前も悪い。早く返事をしろ。相づちだっていいのだ。そして医者は言った。
「私もそういうこと、よく考えるんです」なんとかかんとか。
もう一回×す。だから間をつくるな。
※注※ 一度にたくさん喋りすぎてはいけない。
って言われたからまず第一の台詞を私は置いたが「それは一体、どういう?」ときてそれで、だろうが。はじめから聞く気がないのだこいつは。
私は勢いよく立ちあがりドアを開けたあと、一瞬で往来に出ていた。足は止まらない。
でも一歩一歩動かして前進するほどに少しずつ、からだはクールダウンしていく。
所詮他人など。他者を理解するつもりのないものだ。少しでも期待した己が間抜けだった。
人間。
そうだ。私は……。
家に帰れない。怖い。
私はもう、あの子と顔を合わす自信さえ無くなってしまった。
だから答えを欲しくて彷徨っていたのだった。
怖い。
最初はあの子が狂ってしまったと思ったのだけど。
学校から帰ったあの子が自室に鍵を掛けて篭りだしたとき。
あの子は絶対に顔を見せてはくれなかった。食事もドアの前に置いて、私がドアを開けるのを待ち構えている限り開けてくれなくて。
私はドア越しに声を掛けつづけた。
学校で何かあったの。
ううん、いいのよ。学校が嫌なら行かなくていい。
あなたが、うう、ごめんなさい。
ただ顔が見たくて。
開けてちょうだい……。
「うう……」
「いかがなされました」
突然耳の中に飛び込んでくる声に私は飛び跳ねた。
「あぁ。すみません」穏やかな声。
えっと、どなた?
違う。音声。息を吸って、吐く。
「えっと、どなた……でしょうか」
私の声に反応する足元の草むら。小さなげじげじが、にこりと微笑んだ。
「踏むところだったわ」なんて言って、私も思わず笑っていた。
「いえ、こちらこそ」踏むの? 小さな、その体で? と思ったがそれはなんというか受け答えの適当なアレで。
「つまりその、お子さんが言ったことには、皆が虫に見える、と」
小さな方の理解の早さに私はぽろりと涙を流し頷いた。
「あなたみたいな人が大勢いたらいいのにねえ」
カサカサ、と脚を震わせて照れたように反応する。私は愛おしく思って。
頭の触覚の辺りを触ろうとすると、ぴくっとちぢむのでした。
「ごめんなさい」私が手を引っ込めると、触覚がゆらゆらと揺れる。
「お子さんの言うことは、しかし。やはり一度、会ってみないことには」
「そうね」
「ええ。大丈夫、もう一度会って話せばきっとなんとかなりますよ」
優しい言葉に勇気付けられて、私は家に帰りつき、玄関の前に立っていた。
すー、はーと深呼吸を二度。そしてドアを開ける。
しんと静まりかえった、息子のいるはずの家。足を踏み入れて、後ろ手にドアが閉まり。
首筋に温い温度。チクリと刺すような痛み。ぐらりと頭。足元がふらつく。高熱の出たときのような。肩越しに見えたものは、身の丈の大きさの、脚のたくさんある虫だった。
声が私の喉の奥から出ているのを聴く。ぐらぐらと揺れる頭で聴く。音は不快で痛みも不快で感触も温度も、感じる全てが不快で、そう。
虫というものは、生理的に気持ち悪いものだ。
私はそれだけは本当に殺したかった。
僕は、わかっていた。
だけど嫌だった。
母さん、せめてあなたくらいは。
人間じゃなくてもいいと思いたかった。
部屋を出て、階段をおりていく。
静寂を取り戻した空間。
見慣れた家の廊下の上に絡まり合って静かに横たわっている二つの虫の死骸を僕は見た。