空に色を.1
無限にひろがる真っ白な空。無よりむしろはっきりと、その空白は胸を、頭を、ぼくのすべてを圧しつぶしていく。ぼくはそこにいることさえ許されない。
音も色も無く、ぼくは消えていく。
さみしくて、だけどその清潔さが心地よかった。
胸部に圧迫感。青海翠はつぶされていなかった。それは夢の出来事だと気づく。
現実は、目を開ける。
胸の上に乗った白猫の雪獅子が翠を見おろして睨んでいる。朝ごはんの時間だった。
まったく、おばさんを起こせば良いのにと思いながらはらいのける。
とりあえずパジャマのまま、部屋を出てキッチンに入る。向こうのリビングのカーペットの上でシャツをはだけさせたおばさんがいびきをかいているのが見える。おばさんが布団で寝るのをもうしばらく見ていない。
ニャーという抗議の声にせかされカリカリの餌を皿に盛る。そして水をかけて、レンジでチン。
雪獅子はおじいちゃんなので歯がだめなのだ。それからお湯を沸かしてコーヒーをいれておばさんを起こす。
おばさんはころがったままテレビのリモコンを取り、ニュースをつける。大人はころがって移動するということを翠はここに来て知った。間違えてふんでしまい、おばさんがぎゅうと鳴く。
カーテンを開けると晴れ。すぐにベランダに出て洗濯機を回した。
そういえば、と夢の光景を少し思いだす。
空。さみしさ。
あのとき、ぼくは……。
つぶされたかったのだろうか?
あまりにも自然と受け入れていたように思う。
死、存在の消滅。
今は、やっぱり少しこわいな、と思うのだった。
まだシャワーをあびているおばさんには声をかけず、通学バッグを肩にかけるとドアを開けて足を踏みだす。透明な空の下。
四月。教室。
おばさんの住んでいる田舎町に来て半年。母と暮らしていた都市と雰囲気が違い、建物が少なく周囲を山に囲まれた土地に暮らす人々もどこか「動物」らしく見える。小学校も卒業間近というタイミングで転校してきた当初は、けものの檻の中に放り込まれた餌のように寄ってたかってつつかれまくったものだが、反応がつまらなかったのか飽きたのか、じきに彼らも見向きもしてこなくなり、公立の中学に進んでクラスの顔ぶれも一新したこれからは平穏な日々を送ることができるように思われた。
凪のように……。
翠は学級日誌を開いてペンを動かしていた。ほとんど無意識に。
ペンの描く軌跡は円。そうしてできた図形の内側に、Uの文字の「底の部分」のなだらかなかたちを、横ならびにふたつ、その少し下にももうひとつ。これでいい。
翠は、はっとする。
意識が覚醒し、ひとつの神になったような全能感を覚え、今、紙の上に生まれた存在に名を与えることとする。あたかも祝福のように。かたちに、ことばを。
……やがて、ペンは止まる。
そこにはこうある。
『ぼうっとするぼうる』
「面白いと思ってんの?」別の神が言った。
耳をうたがうことば。翠は泣きそうになってノートから顔を上げた。
その声の主は洗屋。強固という名を持つ男だった。
切れ長の両目を長い前髪の向こうから冷たく光らせている。翠は消えてしまいたいと願う。
「それさ。面白いとか思って書いたのか?」洗屋は二回言った。
翠は泣いた。
ぼやける視界の向こうで洗屋の表情がゆがんで見えた。
バシィ! と乾いた音が鼻先で鳴って、翠の涙は引っ込んだ。見ると、洗屋が頭をかかえてうずくまっている。その隣に、学級日誌を片手に持った嶋田都子が立っているのだった。
「おうみ氏泣かすなよきょこたん」「だまれ。しね」
この二人は六年二組のときもクラスメイトで、この一年C組の中で翠の数少ない知人といえる人たちだった。そしてもう一人いた。嶋田都子とよく一緒にいる、椎名寧音という女子。この人も去年からの顔見知りだった。ひとことも話したことはない。
椎名さんは机の上に戻された日誌をのぞいている。その表情からはあまり感情を読み取れず、人形のようにも感じられる。そしてそれは表情のためだけではなく、顔貌の整っていることによる印象だということに翠は気づく。椎名さんの唇が動く。
「ぼうっとするぼうる」
開け放たれた教室の窓から春の風がそよぐ音がする。
帰り道。
日直だったせいで普段より少し遅く学校を出た翠がひとり歩いていると、草むらの中に彼女がいた。道のわきの空き地のような場所で、空間が何も使われずに草の生え放題になっているというのもまさに田舎という感じの、その真ん中あたりでぽつんと立っている椎名さんの姿が見える。
学校外で彼女を見るのが初めてなので、だろうか。思わず立ち止まった翠がぼんやり眺めていると、目が合った。
息が止まる。今日は人とよく目が合う日だ。と思う。雪獅子、洗屋、そして椎名さん。
翠の心はあまり人と目を合わすようにできていないから、もうこれだけの経験で頭の中がぐるぐるしはじめてしまう。あつくないのに、汗だってでてくる。
椎名さんは落ち着きはらった様子というのか、いつもの表情でこちらをじっと見つめている……。
そうして十秒か、二十秒、あるいはもっと長かったかもしれない時間ののち、翠はすっと右手をあげる。「どうも」
椎名さんは目を伏せる。その表情は、少しやわらいだように見えた。
草むらにもう用はなかったのか、椎名さんは道まで出てきて翠の前で立ちどまる。
「えっと、何してたの」翠がたずねると、
「道にまよった」椎名さんは穏やかな表情で言うのだった。
とりあえず、まずいな。面倒なことになったぞ、と翠は思った。登下校中に迷子になる人がいることを翠は知らなかった。それでなくても人付き合いが少なく、目の前に人がいるときにどう振る舞えば良いのかよくわからないのだ。
だけど、希望もあった。椎名さんの様子がとても落ち着いていることだった。
つまり、童謡「いぬのおまわりさん」の迷子の子猫ちゃんは泣いてばかりいるのでそういうときは本当に困ってしまうだろうな、だけど翠も、迷子というものになったことがないけれど、もしなったとしても彼女のように泣かずになんとかなるような気がする、と思う。
そうしたら、多分大丈夫だから自分は帰ってしまうべきだと思われて、それが正しいような気がしてきて、翠はうなずいて、依然こちらを見ている椎名さんに対して口を開く。
「えっと……。ぼくのうち、そこ……だから……」
だから……だから……。自分の声を頭の中にリフレインさせながら翠はくるりと振り返り、翠の、というかおばさんの住居に向かって歩きだす。
そして、ふうと息を吐く。ともかく、肩の荷が下りてほっとする。今日は少し波風のある一日だったと思う。ただでさえ日直だったし、話しかけられもした。こういうことは翠の望むところではない。踏切をわたり、横断歩道をわたり、おばさんのマンションに帰り着く。ポケットから鍵を出し、ドアを開ける。玄関でもう待ちうけていた雪獅子がニャーと鳴く。
「ねこ」背後からは迷子の椎名さんの声だった。
ニャー、ニャー。雪獅子がいつもよりたくさん鳴く。雪獅子は知らない人が苦手なのだ。翠も半年たってやっと、家にいても怒られなくなった。
「うん。雪さん、こんにちは」ニャー。
二人は会話していた。
「これ、お茶」居間のちゃぶ台に湯呑みを置くと雪獅子が飛び乗ってきてお茶に尻尾の毛が入りそうになる。あわてて湯呑みをスライドさせると椎名さんがふふっと声をだして笑った。
何か、現実感がない。
……自由時間。
本来ならおやつでも食べながら図書室で借りてきた本を読む時間になっていたはずだった。
だが、人と過ごす時点で、無視しづらい、行動に制限のかかる不自由な時間となってしまう。
とりあえずこの人の迷子問題である。これが終わらない限り、翠の自由時間は始まらないのだ。
ちゃぶ台からひざの上にうつった雪獅子をなでている椎名さんは、はたして帰る気があるのかという感じで、やはりこちらから行動しなければならなそうだと翠は思いきった。
言うしかない。会話をこころみるしかない。翠は椎名さんの向かい側に座って自分の分の湯呑みを両手で握る。そして、おもむろに湯呑みを取り、一口啜った。香ばしい中に甘味を感じる。翠はほうじ茶が好きなので手ずから淹れてよく飲む。おばさんはコーヒーしか飲まないので、湯呑みも急須もここに来てから翠が買い揃えたものだった。そして今それはどうでもいい。
ぐるぐる頭の中で巡る思考をチューブを絞るように口からひねり出す。
「あの、椎名さん。……家、なんだけど。どこかわかる?」
椎名さんは顔を上げて、そしてうなずく。
「でも、わからなくなった」
なんで? と翠が思っていると、椎名さんはやっと思いだした顔で、脇のバッグの口をあける。
そして、飛びだした。
風のようにひゅうっ、すぽーんと天井のあたりに浮かんだかと思うと、ふわ、ふわ、ふわ。ゆっくりと高度を落としてくる。丸くて、ぼんやり、すきとおった生きもののような……。それがなにか翠にはすぐわかった。
ぼうっとしたぼうる……。それはちゃぶ台の上まで落ちてくると、雪のように音もなく、溶けて消えた。
幽霊。翠はそういった非科学的存在と関わったことがかつてなかった。そしてそれは彼女も同じだろう、と翠は椎名さんを見る。椎名さんもこちらを見返していて、図らずも目と目が合う結果になる。翠は口をぽかんと開けていたのだったが、対する椎名さんがにっこりと微笑んでいて……。
「もう、何があったのよ。女の子を部屋にあげるとか大胆か! と思いきや自分は外で私の帰りをじっと待ってるし……ほんとわけわからん……」
おばさんがため息を吐きながら、アルコール飲料の缶を開ける。電灯は玄関の方しか点けていないのでちゃぶ台に向かい合っているこの部屋は薄暗く、お互い表情まではうかがえない。ともかく、翠は今日という日に起きた出来事を処理できずにいた。
時刻は二十二時。「あのこと」があっておもわず翠が玄関を飛びだして一時間、仕事を終えたおばさんが帰ってきてからてんやわんやがあって、無事椎名さんは自宅へと帰っていった。
ひとまず一件落着なのだ。もう、なにも問題はありはしない。それでも、納得しかねることがあって、それをぶつける相手がいなくて……。
「あれは何だったんだろう」翠はひとりつぶやいていた。
翌日。
翠は教室の自分の席に着きながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。椎名寧音。
彼女の家は学校を挟んだちょうど反対側だった。おばさんの車に同乗しながら学校まで行って、そこから彼女の言う通りに進むと小さなアパートにたどり着き、その一階のポストには確かに「椎名」と表札があった。二階にある部屋の窓は真っ暗で、彼女が電灯を点けるのを遠ざかる車の中から翠は見ていた。
家に帰っても誰もいない。彼女が道草をしていた理由はそれなのだろうか。いつもそうしているのだろうか。
答えがあるのかわからない。ただの推測に過ぎない。だけど想像の先に昨日の光景があるのだった。草むらに立つ彼女。そして……。
「貴方、青海くんだよね?」突然知らない女子に話しかけられた。
「まだ部活決めてないんでしょ。これ入部届! 貴方の名前書いて? ね、一緒に持っていきましょ」
翠はちょっとのけぞったまま、その紙を受け取る。用紙には「美術部」と書かれていた。
それで、察する。
「部活は、入らない」「どうして?」翠は絞り出すように、声を発する。
「興味ないんで」
女子はなお引き下がらず、何やら喋っているのだが翠の耳には言葉として入ってこない。席を立つと、教室を出て一歩、二歩、歩いたあとで何もかも気に入らなくなり、全力で走りだした。廊下を疾走しながら、想像の中では窓が、照明のガラスが、音を超えた衝撃に砕け散っているのだった。