空に色を.5
「えっ……ほんとうにこれ、青海くんが描いたんですか」つくしさんがまゆを八の字にして言う。翠が久しぶりに仕上げた作品は兄と妹の後ろ姿だった。ただすなおに線を引いたその一作はスケッチという他ないような他愛のないものだったが翠の今の心のありさまをよくあらわしているものだった。
翠はこの世界のことを何も知らない。よく見ることだ。広い世界のまずはその目の前を。
ここ最近の翠は今までにましてぼうっとしているように周りから思われていたが、実際は観察しているのだった。そうすれば、昨日と今日のあいだに生じる変化は道端にも驚くほどあって立ち止まり眺めているだけで日が過ぎる。ふと思いたって画用紙を取り、目の前の花を描きとめることもできたが、それは印象の反芻のようなもので、よく見るための手段としてなかば無意識にとった行動なのだった。
「なんか……ふつうですね……」
露骨にがっかりしながら感想を述べてくる。脇からのぞきこんできた嶋田さんが小首をかしげて「いいんじゃないの?」と言っているが、つくしさん的には納得がいかない様子で、力なく首をよこにふっている。「せっかく青海くんの新作が見られると思ったのに……」ここまでがっかりされると、せっかく描かせてもらった兄妹にも申し訳ない気がするが、気に入ってもらえないものはしょうがない。
「てかひのっちはなんでそんなにしょんぼりしてるわけ?」嶋田さんがのんきに問う。途端に心臓炉に火がともったようにがばっと身をおこすつくしさん、改めひのっち。「そりゃもう! だって青海くんですよ! 生青海翠が同じ学校で、美術部に入ってくれて同じ空間で生新作を描いてくれるってそんな夢のような展開が……まさかこんな」「生新作って何? っていうかマジで絵に興味あったんか。私てっきり彼のことが好きで近づくアレかと」「むしろ絵しか興味ないです」「おい」
なんだかめんどくさいことになってきたが、さわいでいる雰囲気に釣られてよってきた椎名さんの顔を見て全員が絶句する。
「……なにしてんの」あか、しろ、きいろ。顔じゅう絵の具でまるでチューリップのお花畑のような彩りになった椎名さんが、むしろ自慢気に胸をはって立っているのだった。
放課後の教室に満ちる穏やかな喧騒。
翠は少し離れた椅子に腰掛けるとスケッチブックと鉛筆を取りだして眼前の光景をさっさっと描きとめる。全体として平和でありながら、それぞれの色は異なり、互いにかさなりあいながら調和をたもっている。印象に身をゆだねているとだんだんとまどろみの中にいるように意識が曖昧になっていき、反対に感覚が身体をこえてひろがっていく。声のとどかない距離にいる彼女たちをその感覚が、色をもった光としてとらえる。おのおのがちがう特性をもち、異なった光をはなつものたち。
ととと……、タンッタンッタンッ、くる、くる、くる……。光の輪舞はめまぐるしく、まばゆく波をうっておしよせる……。
空白は満たされ、もう一枚スケッチブックをめくり、今度は色鉛筆で同じようにはじめる。モチーフであった彼女たちは色彩をともなった抽象的なかたちに変化している。表情、身ぶり、個々のもつオリジナル。そのもたらす印象。きみどり、さくらいろ、みずいろ、オレンジ、あか。光の軌跡は不規則であるようで、それぞれ固有のリズムをもっている。風にゆれるこずえ。ながれる川のせせらぎ。ぱちぱちとはじけるほのお。いつから存在するものだろう。すくなくとも、翠は生まれてまだ十二年とすこししか経っていなくて、この世界のことをまだ何もしらなくて、だけどそれでも……。翠は思った。ここは色にみちている。
真っ白だった空白に、またひとつあたらしい世界がうまれた。