「樹々の日々」第2話
両手で包むように持ったカップから顔を上げて、ぽろるは「ぷわぁ」と息をついた。
何事も一生懸命で、ちょうど今はココア(の湯気)を全力で味わっていたのだった。
まるで息の切れる寸前になんとか水面に上がることができたかのようなほっとした表情で、なんだか可笑しい。
この子が現れてから一週間、あれから特に事件もなく不思議なくらい穏やかな毎日を過ごしていた。師匠からは一度手紙が届いたが、消印はこちらの報告よりも前で、内容も未確認生命体、いわゆるUMAの一種である雪男と逢うことに成功した! という興奮気味の文面だった。ツーショット写真も同封されている。さらには雪男の毛むくじゃらの体毛から編んだというくすんだ灰白色のブレスレットのようなものまで入っていたのだけど気持ち悪かったので捨てた。入れ違いになったけど、どこぞの雪山にいるらしい師匠はおそらく今ころこちらの書面を確認しているはずだ。ぽろるのことも含めて、これからについては師匠の返事待ちになっている。
少し心配していた協会からの回答の方は、一度定型文らしき確認メールが届いたが、どうも重要度の低い内容と判断されたようでその後は何も、内容に対する質疑応答などの反応は特になかった。
ほっとする反面、ちょっとがっかりもする。
師匠もそんなものだと言っていたが、この協会という組織は割とゆるいというか、頼りない気がする。元々瑠璃珠に関わる者同士、相互監視の目的で生まれたものらしいが実際、法や規約のようなものも文書化されておらずふわっとしている。
ここ一年は研究に専念しようと、十年近く働いていた仕事もやめてこの家に引っ込んでいる。
しっかり貯金をしていたので当座の生活に問題はないが、結局これは『職業』といえるのかいまひとつはっきりしない。などと師匠に言おうものならくだらないと一蹴されるだろう。瑠璃珠師というのは『生き方』なのだ。そして、ひとかどの者に成れば、経済的問題だけでなく、寧ろ俗世のあらゆる悩みに煩わされることなく生活することができるようになる。実際、師匠などはああやって年中、世界各地をあちこち飛び回っているが、衣食住に困っている様子は一切ないのだ。それはそれとして、浮世離れしていることは事実だが……。
軽い気持ちでついてきてしまったことを後悔はしていない。元々身寄りのない子供だったのだ。
ただ、自分なりに頑張ってきたつもりがふと足を止め振り返ってみると、ぼんやりとした夢うつつの中を彷徨っていただけのような気がしてしまう。
「はぁ」
知らずため息が出てしまう。一応の成果が出たことで気が抜けて、少しナイーブになってしまっていたのかもしれない。
思えば篭りきりの生活もずいぶんと長くなる。一冬越せるぶんの備蓄があったため外出の必要もなかったというのもあるが、流石に気持ちも塞いでしまう。
「よし! 出かけよう」
思い立ったが吉日、すっくと立ち上がり、一緒に行こうとぽろるの方を見ると頭からごみ箱に突っ込んでいた。
「なんで……?」
困惑しながら抱きあげると「ころころ」と音を鳴らして笑った。
「隠れたつもりだったのね」
ここ数日、私にも、家にも慣れはじめたこの子は、家の中でいろんな遊びをしはじめた。
どうやらその中で特にお気に入りなのがかくれんぼなのだった。
テーブルの下や、ドアの陰、カーテンの裏などに隠れて、私が見つけるのを待っているのだ。
どれも拙くてばればれの隠れ方なのだけど、思わずくすっと笑ってしまいそうになる可笑しみがあって……。
そう。この子は、よく笑う。私と目が合うだけで、ころんと鈴の転がる音をたてて笑ってくれるのだ。そして思わずつられて私も笑う。
この一週間。もう私は十年分くらい笑っている気がする。
感情を発露させることは、特段素晴らしいことだと私は思っていなかった。
どちらかというと感情は抑制した方が上手くいくことも多いし、私には合っている。
無理をすることはない。
あくまでその人の特性次第なのだというのが私の考えだった。
それで、こころの揺れ動くところから離れた場所に己の精神を置いて生きてきたのだった。
だからこの子、私が『ぽろる』と名付けた幼い迷い子が感情を豊かに表現することもまた、彼自身の在り方で、私とは相容れない性質であると考えたのだったが。
泣いたり笑ったりするのは、もっと自然で単純なことのようだ。
瑠璃珠づくり以前に人間として、私はあまりに未熟すぎる。
だけどそれなら、成熟するにしたがって特性というのも変化するものかもしれない。
今度師匠と話すとき、この話をしてみようと思った。
ぽろるを連れて外に出るのは初めてだ。
ツノを隠すため、フード付きのパーカーを着せる。細いコードのようなシッポはぐるぐるに巻いてポケットにしまった。
数日降りつづいた雪が午後の日差しにきらきらと光っている。
ぽろるは長靴でざくざくと積もった雪を踏んで飛び跳ねる。私は彼の手を握りながら、下半身に力を入れてふんばった。
「こ、転ぶから、危ないよ!」
言ったそばからぽろるはジャンプすると勢いよく雪の中にずぼっとはまっていった。積もった雪が段差を覆い隠していて、そこだけ深くなっていたのだった。
「ぴいい」ぽろるが雪の中からびっくりした声をあげる。
私は顔面から雪にダイブしていた。
首元から服の中に雪が入って背筋がぞくぞくする。
けどぽろるを引っ張りあげることに必死で寒いどころではなかった。
幸い彼の体重は見た目よりずっと軽くて、非力な私でもなんとかなった。
童話の『大きなかぶ』のように、すぽーんと抜けでた彼は一瞬目を丸くしたあと私の顔を見て「ぷきゃっ」と笑った。雪まみれの顔で。
「もう、人のこと言えないんだからね」
だけど、私も自然と笑顔になっていたと思う。
インドア一筋の二十四年。私の人生においてこんな身体的な体験は記憶になかった。
世界はずっと、頭のなかにあったのだと、ふとそのとき気づいた。
何か……曖昧な、点と点が結びつきそうな予感がして、無意識に手元にペンとメモを探していた。
くいっ、と手を引かれて、思考は中断する。
ぽろるの存在が私を現実に引き戻してくれた。
人と人が一緒にいること。同じ時間を共に過ごすこと。
そんな基本的な営みを、私は今ころになって学びはじめているのだった。
一面真っ白の田んぼのあぜ道を過ぎ、駅前の商店街に着くとそこそこ人通りがあった。備蓄がじゅうぶんにあるので特に必要はないが、なんとなく店先を覗いて歩く。いろんなものや人の匂い(?)を感じ取ってだろうか、ぽろるがなんだか興奮しはじめる。
ぴこ、ぴこ、と頭をあちこちに向けて、フードに隠れたツノのセンサーで何かを感じ取っているぽろるの姿は、鉱脈を探り当てるダウジングのようだった。どっちを向いても知らないものばかり。気になるのは仕方ないけど、ふらふらして行き交う人にぶつかるのはよくない。私はそっと両手で彼の身体を支えると、通りの端の方へと誘導した。するとそこにはちょうどフラワーショップがあった。
冴えた空気に混じって青々とした爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
冬に咲く花の、凛とした佇まいに目が覚めるような思いだった。
「綺麗だね」と声を掛けようとした私の腕のなかからすぽーん! と抜け出すと、ぽろるは目の前の花に飛びついた。
「ぎゃーっ!」慌てて引っ掴んだ勢いでぽろるの被っていたフードが脱げてしまう。
店先の騒ぎに出てきたのだろう。
目の前に花の刺繍のついたエプロンを着た若い女性がいた。
しっかりと私たちの……というかぽろるの頭部を見つめて、少し驚いた表情を浮かべている。
さっと後ろからフードを被せなおす。
挙動不審でありながら抑えきれず、思わず周囲を見回す私。
幸いにも、ちょうど目の届く範囲には通りがかる人はいなかった。
「えっと、お騒がせしてすみません」
私は作り笑いを浮かべながら店員さんに話しかけた。
自身の頬の筋肉が引きつっているのがわかる。
(消えたい)
私の内心など知らず、ぴいい! と腕のなかで抗議の声を上げるぽろる。
そんな私とぽろるのどちらに対してか、微笑を浮かべた彼女は瞳を閉じると、
「純粋な、とても綺麗なマナを感じます」と言った。
*
ハーブティーの優しい香りに心安らぐ午後のひととき。
カップに口をつけ、ゆっくりと味わう。
「ころ? ころろ」ぽろるが頭を突っ込むようにしながらカップから立ちのぼる湯気に対して真剣に取り組んでいた。
店員、ひかりさんは私たちと一緒のテーブルについて、穏やかに微笑んでいた。
あの後。
お店でばたばたと騒いでしまった私たちだったが、ひかりさんは気にするどころか、不思議なことを言ったのだった。
『純粋な、とても綺麗なマナを感じます』
意味は不明瞭だったけど、少なくとも私にはぴんとくるものがあった。
それが、彼女の特性。
自分の分野の話題だと分かった途端に、私の気持ちは落ち着いて、彼女と上手く話せるようになったのだった。
気がつけばすっかり話し込んでいて、仕入れに出ていた店長がお店に戻ったタイミングで、バイトの彼女は上がりになった。私たちもぽろるが気に入った花(例の飛びついたやつ)を買って帰ろうとしたところで、お店の奥のテーブルでお茶でも、というお誘いを受けたのだった。
店長直々の提案で「普段は物静かで、人とは距離を取っているひかりが楽しそうに笑うのは珍しいことだ、ぜひ仲良くしてやってほしい」とのことだった。私としても願ってもない。
聞くと、店長は親代わりで、身寄りのないひかりを家族同然に育てて一緒に暮らしているとのことだった。ひかりは十七で、中学を出てからはここで働く日々だという。
身の上に重なるものを感じつつ、それでも当時の自分よりずっとしっかりしているひかりのことを尊く思った。
彼女は生まれつきほとんど目が見えないという。そのかわりに、物心がついたころからだんだんと、この世界に流動している『マナ』という存在を感じ取れるようになった。それは意思をもった大気のようなもので、人やそのほかの生き物、植物、土に水など、ありとあらゆるもののなかを循環しているのだという。マナが通ると生命は活性化し、反対に流れが滞り、淀んだ状態になると生命の力は弱まる。普段、街中でそれほど綺麗なマナの流れを感じることはない。だから今日、とてもびっくりしたのだということだった。
彼女がぽろるのほおにそっと触れながら言う。
「梢を吹き抜ける風、流れるせせらぎ。まるで日だまりのさんぽ道がここにいるみたいな感じです」
ぽろるはくすぐったそうにころころと笑った。
彼女の感じ取る『マナ』という概念のイメージが美しいものであることに、私は無意識のうちにほっとしていた。
(ぽろるは……この子は、きっと天使なんだ)
そう信じるには、ただそうだと彼女が言ってくれるだけでいいのだった。
私は、この素敵な特性について彼女にもっと専門的な方面からアプローチすることもできたかもしれなかった。師匠が私にしたように。
だけど、優しい彼女の微笑みの前に、研究者の私は自然と奥の方へと引っ込んでいった。
彼女の世界はたくさんの彩りにあふれている。私は、彼女のとらえる色彩に一緒にふれて、感じたいと思った。
じきに春が来る。もう少し暖かくなったら、草花が芽吹く季節になったら……。
なんて、先の、この『次』のことを考えていて。
「すっかりゆっくりしちゃった。ひかりちゃん、ごめんね」
結局お茶を三杯もおかわりしてしまい、窓の外ではもう日が傾きはじめている。
「いえ、全然! わたし、あの、いつもひとりなので」
「じゃあもしよかったら、また遊びにお邪魔してもいいかな?」
言ってしまってから顔が熱くなり、慌てて付け加える。
「いやえっと、お花のことも詳しくないし、せっかく買ったのに枯らせちゃったらあれだから色々教えてもらえたらなって……」という建て前を言うのだったら順序が逆だった。今日の会話でかろうじて取り繕えていた年上のお姉さんの仮面が粉々に砕け散る。無念。最後でやらかす。
消えてしまいたいと思いながらひかりの顔をそっと見ると、既視感……店先で、ぽろるを初めて見たときのような、少し驚いた表情で。
探すようにさまよわせた彼女の手が、私の手にそっとふれる。
その存在を確かめるように、彼女は私の手をぎゅっと握った。
「樹々姉様……どうか、いなくならないで」
その声は切実で、ただ純粋に、素直に美しく。
ちりりと、胸が痛んだ。
ぷきゅ! とぽろるも掌のぎゅっに参加して、三人はまるで同盟のように円をつくってしばらく手を握りあっていたのだった。
彼女の掌の温かさは、帰り道ずっと胸のなかに残りつづけていた。
家に着いたとき、それが家だとわからなかった。
ひかりとの一件で、ぽうっとしていたという訳ではない。
現住所の位置に雪山が出現していたからである。
家の場所を間違えるはずがない。周囲の風景も相違ない。
なのに家があるべきところに雪山がどん! と存在している。
ちょうど家屋二階ぶんの高さの……。
「うちにめっちゃ雪積もってる!」
明らかに異常事態だった。だって今日は朝から雪降ってないし。
道中の積もった雪も、一日の晴天である程度溶けていたくらいで。
何故ここだけ局所的に、降雪が続いたのか?
そう、さっきから気づいていたが今もなお、うちの真上だけ黒雲がずっしりと鎮座し、ものすごい勢いで雪を降らせつづけているのだ。
原因はこの雲……の、発生源。
上空から降る雪に合わせて視線を下ろしていくことでようやくその存在に気がつく。
黒雲の真下、雪山(我が家)のちょうど入り口付近にあたる場所に、見事なかまくらが完成しているのだった。出入り用の穴のそばには立派な雪だるままで置いてある始末。
私が呆気にとられていると、このゲリラ一人雪まつりの主催者が、かまくらの中からそろそろと現れた。手にしていた文庫本をぱたりと閉じると、コートのポケットにしまう。黒縁の丸眼鏡の鼻あてを指で持ち上げながら、睨み付けるようにこちらを見てくる。
「十六時、三十分ですか」
開口一番、その口調は苛立たしげで、既にこの初対面の男性に対する印象があまり良くないものになりかける。
私が時刻を確認しようとスマホを取りだしかけるとそれを手で制するようにして、男性は続けた。
「あんまり遅いのでもう帰ろうかと思っていたところでした」
「はあ」
要領を得ない。勝手に帰ってくれていいのだが……。
そもそもこの人は何故ここにいるのか、と考えたところでようやく思いいたる。
私が口を開くより先に、彼の方が言った。
「協会の方からきました」
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