”1951年 テキサス州 アナリーン 変わるはずのものは何もなかった…” "The Last Picture Show"(1971)
「ラスト・ショー」という懐古的、ノスタルジアな甘い響きに反して、その味は非常に鬱屈。1950年代初頭テキサスの小さな町を舞台に、閉鎖する映画館とともに若者たちの青春とアメリカの失われた夢の終わりを淡々と描いた秀作だ。
起伏のある展開というものはない。主人公のソニー(演: ティモシー・ボトムズ)は、くたびれた機動音を奏でる1951年のフォード・カスタム デラックス(Ford Custom Deluxe)を乗り回し、テキサス州の小さな町、アナリーンをあっちへ行ったりこっちへ行ったり、夢もなく、高望みもなく、悶々とした日々を送り続ける。
方や、親友デュアン・ジャクソン(演:ジェフ・ブリッジス)はアメフト部のヒーローで、町一番の美女ジェイシーを連れ回し、ケンカ早いが気のいいリア充。そこまで男を磨く勇気もないソニーは、セックスの処理の相手として、倍ほども年上の孤独な女性:アメフト部コーチの人妻ルース(演:クロリス・リーチマン)を選ぶ。
街唯一の映画館「ロキシー」は古びてはいるが、外観には映画の全盛期を反映する華やかさがあり、それだけに一つの時代の終わりを示すわびしさを感じさせる。ここで若者たちは不器用なデートをしつつ「花嫁の父」(原題:Father of the Brid)を見る。
娘の結婚式の準備に奮闘する男性を描いた、ヴィンセント・ミネリの演出が光る1950年のコメディ映画。都会も結婚もはるか遠くの世界にある、彼ら若者にとっては絵空事。死んだような目でスクリーンを凝視する若者たち。
やがて映画館「ロキシー」、軽食堂、バーを所有していた「サム・ザ・ライオン」が死ぬと、ロキシーは時代の流れに抗しきれず廃業する。である。最後の興行で上映されるのが「赤い河」。
そのときの観客はソニーとデュアン、それに知的障がいの少年:ビリーの三人だけで、翌日、朝鮮に出征するデュアンは軍服姿。
デュアンが長距離バスで発ったその朝、顔なじみだったビリーはトラックに轢かれてあっさり逝き、ソニーは一人ぼっちに。
どうせひとりになってしまったのだからと、ソニーは街を出ようと決意してトラックを走らせるが、やがてUターンして、ルースのところに戻る。
くたびれ果てたルースに対し、初めてサニーは実の母にも遠慮していた感情:やりきれない怒りをぶつけ、しかし、やがて、自分が情けなくなって泣き出す。わが子のようにルースがサニーを慰めるカットで、映画は終わる。
本作、言うなれば「雰囲気映画」ともいえるだろう。
が、その趣をぴしりと捉えている。
1950年代初頭、テレビの普及率がジリジリと上昇していた時代の話。今のような希少価値もなく、当時、映画館は潰れて当然、淘汰されて当然の存在だった。
それでも、街の明かりが消える、ということ。映画館だけでなく街自体が死に絶える、何かが終わってしまう、夢が消えてしまう、という昏さが、青春の鬱屈と共に、即物的に描かれた、一度見ると忘れがたい作品だ。