健さんを喪った。その掛け替えのなさは重く…降籏康男の最終作「追憶」。
降旗康男監督が亡くなって4年。間もなくはや亡くなって9年が経とうとしている高倉健とともに、その名は、徐々に忘れ去られつつある。
かつては「冬の華」「駅STATION」「夜叉」「鉄道員」「ホタル」「あなたへ」と、「降旗&高倉」は数少ないトラディッショナルな日本映画の系譜であるとともに、希少な稼ぎ頭:ゴールデンコンビと謳われた、そんな時代があった。高倉健のような日本のこころが狂騒とSNSのご時世に埋もれて久しく。健さんという相棒を喪った降籏監督の、結果として遺作となった2014年の映画「追憶」より。
本作で降旗監督は、岡田准一を高倉健に見たてようとした。
この作品の要が、どうにもしっくりこない。 健さんは「不器用」、一方で岡田は「器用」、まず一般的なイメージがある。実のところ、健さんは色んな役を器用にこなしてきたのだが。
それ以上に、「役者の年齢に合わせた絵作りをしていない」という問題がある。 本作公開時点で、岡田は37歳。 同じ年齢の頃、健さんはまだ任侠映画の最前線に立っていた。 「網走番外地」や「日本侠客伝」のように、そこで健さんは、シリアスとコミカル、両方をバランスよく演技に落とし込んでいた。
健さん=寡黙のイメージとなるのは40を越してから、「八甲田山」「冬の華」といった大作の主演をつとめるようになってからだ。
その「40代以降の健さんが映えるような」始終どっしりとしたカメラで、当時まだ30代の岡田の演技をリードしようとする。結果、どうなったか。
劇中、岡田は、常に塞ぎ込んだ表情で、ただひたすら張込みに従事している。 「40代以降の」健さんのイメージなら冬の華よろしく「足長おじさん」「背中で語る独立独歩の男」とポジティブに捉えられるところ。 しかし37歳の岡田の場合「厄介な粘着気質」・「説明すべきところを言わない」めんどくさい男に見え、どうにも陰気でネガティブに見えるのが、なんともいえない。
岡田一人にカメラがのしかかっているためか、他の役者は重力から解き放たれた格好。 特に幼なじみの残りの2人、柄本佑は幸が薄いキャラクターを、小栗旬は幸が多いキャラクターを、ニュートラルに活き活きと演じきっている。そして:一面黄色い花の海岸線で、木村大作のカメラは、みごとに終局を演出する。
しかし、結論から言えば:高倉健を失った重さに、強く思いを馳せてしまう100分弱の映画なのだ。