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たぶん、それは幸福。

本当に最初はたまたまだったんだ。環境ががらりと変わってなにもかもうまくいかないことばかりで、深夜の布団の上で幼かった子どもらにはさまれて2ちゃんねるをただただ眺めることでしか自分を保てなかった日々の中で、あのネガティブなニュースを見つけた。それでクリープハイプを知ったんだよ。この子たちにあんなことをさせてしまう人たち、いったいどんなバンドなんだろう。見た目はなんか好きだな、そうだ、このボーカルは魚喃キリコの漫画に出てきそうだ、最初はそれくらいだった。それで、しばらく忘れていた

    • 明日からが平日です。

      冬休みはこの三連休含め、好きなことの中だけで生きていたと思います。職場から一歩出ると、生活と趣味のことしか頭にありません。 好きな人が笑っていると嬉しい。だから明日も笑ってね。輝いていてね。生きてるだけで輝いている。だから生きていてね。 とりあえず明日も出勤はするかー。

      • 夜にしがみついて、朝で溶かして

        クリープハイプの新しいアルバム「夜にしがみついて、朝で溶かして」を聴いて、思ったことを書きます。 #ことばのおべんきょう #クリープハイプ #夜にしがみついて、朝で溶かして 新しいアルバムを聴く瞬間はこんなんだったか、と久しぶりに思い出した。当たり前が当たり前ではなかった日々に、有り難いことだと思った。 1 料理  掻き立てる激しいギターの音で始まる1曲目。クリープハイプから思い出すことがあまりないような、食べる、ということが歌になっている。不思議だな。けれどあんまり幸せ

        • 首筋の、

          汗かぶれが一か所治らないままに急に寒くなって、そこが今度は乾燥でかゆくてたまらない。一層色濃く、印がついている。 キスマークなんてつけてるわけないだろ、と見る度に彼の人の言っていたことに気持ちが沿う。 なんだか悔しい。

          街の上で。

          はじめは不穏な、共感性羞恥にガシガシ訴えてくるような、気持ちがザクザクされるかと思って少し身構えた。 スクリーンには、生活があり、心があった。 生活にはドラマがある。自分だけが主人公というわけでもなく、誰もが誰かのドラマのエキストラであった。エキストラにすらなれないときもある。 結局、いてもいなくても同じかもしれないのに、ひとつひとつがなんでこんなに大事なんだろう。 誰かのドラマが重なって重なってできあがった、ひとつの大きな布のような、それが日常なのだろうか。 あるはずのも

          街の上で。

          読んだ本 母影 もうひとつ

          しばらく時間があいて、思ったこと。 物語は最後、大丈夫、であった。大丈夫、になった。 大丈夫、にしたんだと思った。 今でこそ「わたしの見たい」尾崎世界観なんだけれど、そういえば暴力的なものをつくる人であった。昔の歌はそういう部分が心地よかったし、ピンクソーダを読んだときには狼狽えた。 尾崎世界観には常々、女性には敵わないなぁ、という思いがあるそうで、その思いに下支えされている作品も少なくない。 母影の母子にも、そうあってほしかったのではないか。 どこにも行かないどこにも行け

          読んだ本 母影 もうひとつ

          読んだ本 母影

          「母影」尾崎世界観 いわゆる「マッサージ」でお金を稼いでいる母親と、その娘、の話。 主人公である娘の、私、はいつも母親の仕事場で待っている。カーテンをはさんだ反対側にいる、お母さんを。 私の内側と、何が起こるでも起こらないでもない外側。そしてお母さん。日々。 読むのは苦しい。 だけど、最後はきっと大丈夫だった。理解できないことも、許せないこともあった。でも、大丈夫だった。 どこにも行かないしどこにも行けない。 それは、しょうがないこと。しょうがないけど大丈夫。 大丈夫だか

          読んだ本 母影

          もう明日がきたんだけど、

          あなたが無くしたかった今日は、誰かが生きたかった明日だったかもしれない、とか無責任には思わないし、死にたかった今日、という思いも、思いだけならあってもいいと思う。 でも、死ぬのはこわいし、死んでしまったらなんにもないし、なんならなんでもなくなる。 生きてたのなら、その方がいい。 自分本位な話です。

          もう明日がきたんだけど、

          鍋の〆に入れる蕎麦を茹でながら、これから読むであろう活字たちのことを思う。

          昔から字を読むのが好きだった。商品の裏にある原材料名なんかも全て読みたかった。 (それは第一子に受け継がれているらしく、暇さえあれば何か読んでいる) 字を読めることが嬉しくて、本屋にはできるだけ行きたい。そして手ぶらでは帰りたくない。そうしていると本が溢れるのは仕方ないことで、読める時間と有る量の比率がおかしくなってくる。だけどそれはもう四半世紀も前から変わらないので、ひょっとしたら所有をしたいだけなのかもしれない。 とは言えもうそろそろ終いの空気になってきたので、とりあえず

          鍋の〆に入れる蕎麦を茹でながら、これから読むであろう活字たちのことを思う。

          ここは、

          日記のように使ってもいいんでしょうか。

          ここは、