背負いつづけてきた記憶①
なにも書きはじめていないモニターを、ぼくはしばらく見つめていた。
ぼくの生きてきた長い時間に影を落としてきた記憶がふたつあり、けっして表面には出てこなくても、毎日の暮らしのささいな行動から、ターニングポイントになるような決断に至るまで、意識の底の闇の中から思考を絶妙に操ってきた。
その影響はあまりにも広く、第三者まで巻きこんでしまった過去もあり、世の中へ出したくない部分も多く、どれぐらい切りこめるか判らない。
ふたつの記憶は、ぼく自身のあこがれる生きかたの対極に位置していて、ときには怯えたり、体当たり直前で方向転換してしまったり、結局はなにも語らずに、その影響を限りなく消極的に肯定し続けてきた。
だから、たどるほどに、書き進めるほどに、タナに上げている自分自身と衝突するだろう。
ふたつの記憶は、ぼくが経験してきたさまざまなできごとへの影響だけではなく、いまの社会の閉塞感と深く関わっているような気がしてならない。
とすれば、これまでとこれからの文章のほとんどに、かなりのストレスをかかえこみながら、書き進めることになるだろう。
体力と気力が維持できるように、適当に迂回しながら本丸をめざして、五十歩百歩をくり返していこう。
その日、ぼくはおやじとテレビにかじりついていた。
夏の甲子園の決勝が中盤をむかえていた。あの時代にしてはめずらしく、地元京都商業が勝ち上がっていた。
相手、報徳のエース金村はとてもがっしりとしていて、見るからに頼もしかった。
一方、京都商業の井口は小柄で小気味のいいストレートはあるものの、縦に割れるドロップが決め球の技巧派投手だった。
試合は、終盤まで均衡が破られないままだった。
おそらく下馬評は報徳が有利だったし、体格だけで判断はできないけれど、明らかに劣勢に思える京都商業を、ぼくは応援していた。
それに、なによりも地元だった。
なんとなく、おやじに話しかけた。
「京商が勝ったらいいよなあ」
すこし間をおいて、思わぬ言葉が返ってきた。
「あいつら、ほとんど朝鮮ばっかりやしなあ」
そのニュアンスからは、応援する気持ちはまったく感じられず、ねっとりとした軽蔑がまとわりついていた。
ぼくはそれ以上、話すことをやめてしまった。
そのとき、おやじに対する感情はあまり湧かなかった。
ただ、とてつもなく巨大な壁が立ちはだかっている感じがするばかりだった。
ネットで検索してみると、この試合は一九八一年に行われている。もうすこし、思春期の記憶だと思いこんでいた。
少年時代から思春期にかけて、ぼくは施設や養護学校で大人や同世代のよき理解者にかこまれながら暮らし、学ぶことができた。
それでも、施設では同世代の友だちと学校へ通う願いはかなわなかったし、養護学校での友だちはすべて障害者だった。
いくら恵まれた人間関係であっても、「障害」という縛りにからめとられた時期を過ごしたのかもしれない。
おやじの「あいつら、ほとんど朝鮮ばっかりやしなあ」という言葉に、自分という存在の前に「障害」という逃げられない枠にはめこまれている重さが合体したのかもしれなかった。
いまも、なにも変わらない。ぼくには、個人である前に障害者であったり、利用者であったり、まずレッテルが貼られる。それは、一人ひとりとの関係よりも制度や社会的に重視されることが多い。
差別の中に、一人ひとりの顔は見えない。
「障害者」とか、「朝鮮人」とか、みんな一くくりにしてしまう。
ひとつのカテゴリーに押しこめることは、とても危険だと思う。
誰かを攻撃すれば、そのときは優越感に浸れても、やっぱり心はとんがっている。
何回も書いてきたように、ぼくも「思いこみコロナ」になってしまってから、まわりの人たちを非難して遠ざけた時期があった。でも、しんどさは増すばかりだった。
コロナはややこしい。よほど極端な意見や行動でないかぎりは、一つひとつの考えの中に正解と不正解が同居している。
まったく唐突に、これまでぼくが味わった中で、いちばん忘れられないふわふわでやさしい甘さのコッペパンが食べたくなった。
けれど、若いご主人は病気で逝ってしまわれた。
いつも店を訪れると、「パンは生鮮食料品だから、できるだけ早く食べてください」と、言っておられた。
なぜ、そんなことを思い出したのだろうか。
人間はおもしろい。