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施設では経験できなかった
二十年近く前だったと思う。
ある土曜日の午後、ぼくは自宅から十五分ぐらいの住宅街にあるお好み焼き屋のカウンター席にいた。もちろん、電動車いすで。
目鼻立ちのすっきりしたご主人がひとりで仕切っていた。
オープンして間もないころ、お持ち帰りを頼みに行くと、食べていくことをすすめられた。
ひとりだったので、介助が必要なことを伝えると、「電話でよんだら、十五分ほどでカミさんが来てくれるし、忙しかったら娘もいるし」とのこと、素直にあまえることにした。
それから、たびたびお世話になった。
ぼくの注文は、いつも決まっていた。それは「カレー焼き」だった。
あえて、具は少なめで、その分、カレーの風味がきわだってヤミツキになった。
席についてしばらくしたころ、三人連れの客が入ってきた。斜め後ろのテーブル席に座った彼らは、とりあえずのビールを注文したあと、内輪話に盛りあがっていた。そのいでたちと聞こえてくる会話の内容から、ヤクザ屋の親分と若い衆だとすぐにわかった。
三人が入ってきて、五分~十分経ったころだっただろうか。
ぼくのカレー焼きは食べやすい大きさに切られ、あとは奥さんの登場を待つばかりだった。
突然、思いもよらない展開になる。
「組の話するんやったら、あんたら出て行ってくれるか。カネはいらん」
ご主人の視線は、まっすぐに三人へむけられていた。
迫力と冷静さを兼ね備えた口調だった。
「申しわけない」と親分が頭を下げ、若い衆もそれにつづいた。
ご主人は「すんませんでした」とぼくに謝り、三人の注文を仕上げはじめた。
ぼくが店を仕切る立場なら、あれほど毅然とした態度がとれただろうか。
施設では経験できないエピソードだった。
その後、半年ほどで店はシャッターを下ろす。
たまたま、ぼくがその通りを歩かないうちに。
ひねくれもののぼくは、ふと考える。
良心に背いて生きる人たちのよろこびは何なんだろうか。しかも、命の危険にさらされながら。
そういえば、ご主人に再会することはなかった。
ご近所を歩くこともあったけれど、元気にしておられるのだろうか。
二十年近く前のことでも、目鼻立ちのすっきりした表情は忘れられない。