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それぞれの価値観を認めあう自由
大都会のターミナル駅から三十分ほど電車にゆられて、やや遠くに碧さをたたえた峰の連なりの見える地方都市の駅に降り立ったのは、ある集会の開始時間をわずかに過ぎた午後だった。
電車のドアが開くと、子どものころにラジオのなつメロ番組でよく耳にしたしんみりとする決して勇ましくはない軍歌などと、男のガナリ声が幾重にも混線しながら大音量で聞こえてきた。
ガイドヘルパーのアンジェラ・アキ似の彼とホームへ降り立つと、その音量はみぞおちに力をこめて話さなければ聴き取れないほどだった。
乗り合わせた車両は改札の近くだった。
騒然とした町の状況に想いをめぐらす間もなく、駅舎を出ざるを得なかった。
十年の時を経ると、記憶もあいまいになる。
駅前から会場までどんな町の風景だったか、うまく思い出せない。
ただ、十五分前後の道のりで、これまでに経験したことのない数の大小の黒い車とすれ違ったり、横切っていったり、追い越されていったりしたことだけは記憶から離れない。
ぼくは後悔していた。
ターミナル駅近くの食堂街で、入る店を決めるのにずいぶんと時間をかけてしまった。
時間ギリギリになると、いろいろなことが起こるかもしれないと、早めの到着を主催者から念押しされていたのだった。
会場が見えてくるとだんだん気持ちは重くなり、黒い人垣に恐怖を覚えた。
集会への参加のためにガイドヘルプをお願いしたアンジェラ・アキ似の彼の横顔に「どうしよう?」と声をかけると、「ちょっと危険ですよねぇ」と躊躇しながらの言葉が返ってきた。
ぼくは「帰ろうか」とわざと小さく応えて、一八〇度回転してもと来た道を戻っていった。本当は彼の言葉にほっとしたのだけれど…。
いつごろからだっただろうか。
ぼくは、ボーダーラインを意識するようになっていた。
たくさんの生きにくさがやってきて悩み、抗うことなしに折りあいながら暮らしていても、「ここは妥協しても、ぼくには譲れないものがある」と自分自身をおさめてきた。
ぼくなりに人を見極め、同じ土俵で話しあえると判断できれば、素直に想いを伝えたり、大胆なまでに相手の内面に飛びこんで行ったりしながら、たくさんの一人ひとりと関係を築くことができた。
違う個性と出逢うたびに、なによりも最優先して守りたいものは「それぞれの価値観を認めあう自由」だと思うようになった。
その自由を危うくする動きがあれば、行動を起こそうと考えていた。
しばらく、ぼくは落ち込んだ。
まわりからすれば、滑稽にみえたかもしれなかった。
「障害当事者なんだから、もっと大事にするものがあるんじゃないの?」という人もいた。
でも、あれぐらいのことで踵を返す自分が情けなかった。
どこまで後退すれば気が済むのだろうと、自分を疑った。
いつの間にか、あの日の出来事を自分から滑稽に話すようになっていた。
生きるための知恵がついてしまったのだろうか。
三~四歳だっただろうか。
寝床が敷かれた灯りの下で、おやじがおふくろの顔を踏みつけていた。
怖かった。悲しかった。
あんな大人にはなりたくない、と思った。
以前から、スイッチが入って急に怒鳴ってしまうことがあった。
いまは気持ちの浮き沈みがひどくなって、なにかのストレスがきっかけになり、簡単にキレてしまうこともある。
それに、おふくろの長期入院というあきらめざるを得ない事情を背負って、幼いころから大人の顔色をうかがうことを覚えた。
そんな染みついてしまった体験から、声の大きな人に意見することはとても苦手になった。
だから、精神的に「なにか」がなければ、「偉そうな態度」を取ることはほとんどありえない。心の中は別にして。
けれど、あの夜の記憶は、縦関係に対する反発心と「それぞれの価値観を認めあう自由」への想いとシンクロしているような気がする。
コロナの時代。
疑うことから解き放たれたい。