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ことば

 最高の一日だった。
 自分を確かめられた一日だった。
 考えさせられる一日でもあった。

 人間関係での貸し借りはないのに、わが家に出入りするサポーター(ヘルパー)の中でも、いちばん仕事感を持たずに過ごしてくれるKくんが午後から夕方までのシフトだった。

 相変わらずだった。
なにかの会話が途切れたと思ったら、わずかな前ぶれもなく彼が切りだした。
「ぼくねぇ、菓子パンと惣菜パンを食べるとしたら、菓子パンから惣菜パンの順番にしたいんですよ」
「また来た」と思って、吹きだしそうになった。
 
 ぼくにとっては、きっといいことなのだろう。
最初に「仕事感なく」と書いたけれど、彼の中の相手(障害者)の位置づけの割合では、ぼくという個人が大半をしめて、普通は重要なはずの「利用者」という部分は「カケラ」に近いのかもしれない。
 だから、そのときにいちばん言いたいことや、アタマに浮かんだことが言葉になるのだろう。

 菓子パンと惣菜パンの食べる順番は、ぼくもまったく同じこだわりを持っている。
 お茶や水を飲むにしても、食事の終わりに「甘さ」を残したくないからだ。
「デザートとか、よう食べてはりますやん」と反論する人がいる。
あれはぼくからすれば、デザートであって食事には入らない。
Kくんは、もっと適切な表現でその理由を説明していた。
が、思い出せなくなった。

 それから、彼は唐揚げについても熱く話していた。
「唐揚げ定食とかね、ほかのおかずは後にして、唐揚げを先に食べたくないですか?ほかの味が混じるのがイヤなんですよ」
 たしかに、サクサク感が醍醐味のひとつだから、口の中によけいなものを残したくない気持ちはわかる。

 いままでの話は、介護の仕事に携わる人たちもふくめて大勢がイメージしている「あるべき姿」と大きくかけ離れたぼくたちにとっての最高の時間だったと〆たいところだけれど、ここからが真打登場だった。
 彼が訪れる時間は、毎日のあれこれをゆっくりと話したいし、なによりもぶっきらぼうを楽しみたいから、できるだけ用事をつくらないように段取りしているし、noteも書こうとは思わない。

 すこし横道へ逸れる。
 Kくんに投稿の入力をお願いしないワケは、まったく別のところにもある。
 真剣に友だち感満載でつきあっているから、投稿後は気にならなくても、書く場面につきあってもらうのはどこか照れくさい。
特にマジメな内容のときは…。

 夕方近くなって、Kくんがまた切りだした。
「『たま』好きですか?この間、YouTube観てていいなあって思ったんですよね。子どものころ、『ちびまる子ちゃん』の唄をうたってて、西城秀樹のうたってたのも好きでしたけど」
 ぼくも勢いこんだ。
「『たま』言うたらなぁ、友部さんと仲ええんやぁ。ボーカルの知久くんなんかなぁ、高校の卒業旅行で友部さんの家まで行ったらしいで。友部さんの初期の唄をリメイクしたアルバムで、バックはたまがやってるしなぁ」
 それから、大事なことをつけ加えた。
「たまのメンバーが参加してるパスカルズと友部さんがコラボしてる『六月の雨の夜、チルチルミチルは』のYouTubeは、何回観てもぼくの中ではいちばんや」
「知ってます。ぼく、この家で何回も観せてもらいました」
と言って、彼はぼくのタブレットを検索しはじめた。
そして、「チルチルミチル」が流れた。

 「チルチルミチル」が終わると、今度は友部さんの若いころの声で、「水門」や「夕日は昇る」が立てつづけに聴こえてきた。
 Kくんは食い入るように観ていた。

 最高にうれしかった。
彼は観ていた。
ぼくは聴いていた。
タブレットは彼の方に向いていた。
つまり、Kくんはぼくの存在を忘れて、友部さんを楽しんでくれていたのだった。

 トイレを頼むついでに、おもいきり突っこんだ。
「ふつうのヘルパーさんだったら、利用者さんの方を向けるやろう。そういうとこが、ぼくがKくんを好きやって言う理由なんやけどな」
「ホントに変な利用者さんですわ」
爆笑と苦笑いと微笑みをシャッフルした顔をして、トイレへシビンを取りに行ってくれた。

 彼が働く事業所では、誰がどこの家に行っても、まちへ出かけても安心してサポートできるように、それぞれの人(利用者)に合わせた基本的なマニュアルが作成されている。

 必要なことだと思う。
大切なことだと思う。
 ただ、気がかりなことがある。

 今日、ぼくの存在を忘れてタブレットに食い入っていたKくんは、ほんとうに音楽が好きで、友部さんの唄にも響いてくれていて、そんな彼のそばで同じ時間を過ごしていることが、ぼくはうれしかった。
 もし、そういう情報が先に入っていて、ぼくに合わせてくれているとしたら、それはいつかはバレてしまう。

 仕事だから、合わせなければならないときもある。
内面に関わることだけではなく、具体的な介護の場面でも、サポートする自分を抜きにして相手のことばかり気遣っていると、無理な体勢から肩や腰を痛めたり、サポートされる側にも余分な負担がかかって、しんどいことが多い。

 体格が違う。体力も違う。性格も違う。相性も違う。
マニュアルに捉われすぎないように、自分自身の感覚も大切にしてほしい。相手との呼吸も…。

  
 noteへ投稿をはじめたころ、こだわりたいテーマが書き終わったら、一冊にまとめたいと考えていた。
自費出版なのか、noteを活用して有料でまとめるのか、形は別にしてそんなことを描きながらのスタートだった。
 でも、ここ二ヶ月ほどで、大きく気持ちが変わった。
何かの理由で書けなくなるまで、ダラダラとつづけて、そのままフェードアウトしようと思う。

 どこかで書いただろうか。
これまで生きてきた中で、ぼくはたくさんの人に誤解されてきた。
 硬直しながら話していると「一生懸命ですね」とよく言われた。
ただ、相手に伝えようとしていただけでも。
 ぼんやりと人間ウォッチングしながら、電動車いすで歩いているだけで「がんばってますねぇ」とよく声をかけられた。
 ぼくもその誤解を利用して、うまく立ちまわってきた。
でも、ほんとうの自分ではないというか、重層的なぼくを伝えきれずにもがいてきた。
 一冊にまとめることは、およそぼくらしくないと考えるようになった。

 最後まで特別なことはしないで、静かにフェードアウトしたい。
 もちろん、逝ってからも特別なことはしないでほしい。

 見かけが目立つことと、すこし話せて、すこし書けることもあって、いろいろと断りきれずに引きうけていた時期があった。

 思春期のころからぼくを支えつづけてもらってきた友部さんや渡さんは、いつまでも変わらないし、変わらなかった。
 中身をくらべると恥ずかしいけれど、ぼくもずっと変わらないままでいたい。

 動員で出かけるのは苦手だった。しがらみもうっとうしい。
これで伝わるだろうか。

 もちろん、書けるところまで、noteはダラダラとつづける。
念押しに書いておく。

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