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「かたくなさ」について
結局、彼とは心を開く関係にはなれなかった。
ぼくがまだ施設で暮らしていたころ、専門学校の実習スタートの日に初対面でかけてくれた言葉に、最後までわだかまりを一方的に持ちつづけてしまったからだった。
ぼくのベッドの下のスペースには、いくつものCDラックが積まれていて、六十年代後半~七十年代にかけてのメディアから距離をおきながら活動し、唄っていたフォーク・ロックのアーティストたちの復刻CDとカセットテープは、田舎の夜空の星の数とまではいかなくても、都会の年末年始の「それ」ぐらいはあったのではないだろうか。
実習スタートということもあって、彼は勢いこんで声をかけてくれた。
「なにか、お手伝いすることはありませんか?」
ちょうど、オーディオのCDを入れ替えてほしかったので、さっそくお願いをした。
「ぼくも音楽は大好きなんですよ」と声をはずませながら、彼はベッドの下へもぐりこんだ。
自分感覚でジャンル分けされたラックのひとつを取り上げてもらい、フタを開くと、彼が驚いたように何枚かをぼくの目の前に並べた。
「ぼくも、この人たちの音楽に興味があるんですよ」
キツネにつままれた気持ちになった。
ブルーハーツや中島みゆきはスタンダードに扱われていても、世の中の主流はメロディー重視が大手を振っていて、日々の暮らしや友だちのことなどを淡々と唄う言葉を大切にしたアーティストに興味を持つ若者の出現に、思いきり前のめりになってしまったのだった。
ところが、聴きたいCDを探しあててもらっているうちに、何か違和感を抱くようになっていった。
何曲かのおすすめをいっしょに聴いていると、真剣にメモをとりはじめた。ジャケットに目をやりながら。
何をメモっているのか訊ねてみると、発売年月日や参加アーティストを書きとめているのだった。
「いやぁ、ここの歌詞がたまらないんだよなぁ」などとふっても、声は届かないようで、メモることに彼は熱中していた。
そして、ぼくに壁を実感させる一言が聴こえてしまった。
「すごいコレクションですよねぇ」
「集めているわけじゃない。大切に聴いてるんや」
もちろん、声にしたわけではなかった。
あのころ、CDとカセットテープを合わせると四百ぐらいはあったのではないだろうか。もちろん、すべてをフラットに聴くわけではないから、何年も再生していないものもたくさんあっただろう。でも、コレクションしているわけではなかった。
彼は、ぼくよりも十歳あまり年下だった。
修復できない壁を感じながらも、実習が終わるまでに何度か話す機会があった。
ぼくと違って、のめりこむ性格ではなかったようだ。
若者が社会に対して深く関わろうとした時代に、とても「あこがれている」と話してくれた。
あまり深入りすると、「自分自身がしんどくなることが怖いんですよね」と言っていた。
五年ほど前のある日、ぼくは家のカギを落としてしまった。
たまたま、お昼のヘルパーさんがキャンセルになっていて、家主さんにスペアキーの相談に行くつもりだった。
カギがないからいっしょに家を出ようとヘルパーさんに伝えると、「つぎの介助まで時間があるから、帰り道を探してみよう」ということになった。
見つからなかったけれど、ほんとうにありがたかった。
すこし間をおいたある日、カギを探してもらったヘルパーさんにお礼を伝えると、こんな言葉が返ってきた。
「たくさん世間話してるやろ、みそ汁でいちばん好きな具は、おたがいに麩やしなぁ。ぜんぜん関係ないような積み重ねが大事なんと違うかなぁ」
言葉に想いをこめるとき、人の視線はふたつのパターンに分かれるような気がする。
ひとつは相手の眼を見つめながら。
もうひとつは遠くに視線を送りながら。
都会といっても、緑の多い里山近くへ足を運ぶと、なつかしい姿や声に出逢う。
あの日も、春の薄曇りの中で雲雀の囀りが聞こえていた。
彼は目を細めながら、あわただしい声の主を探すように、ゆっくりと言葉に変えてから、こちらを向いた。
大きな過ちや失敗で、関係性が崩れることはほとんどないのではないだろうか。
また、感動的な出来事で一気に信頼が生まれるわけでもないだろう。
特に、介護という地味な日常のくり返しの中では、劇的なシーンとはあまり出逢わない。
人の相性だけは、どうにもならない。そこは割りきったり、あきらめたりしながら、介護される側も、介護する側もおつき合いするしかないのかもしれない。
だけど、信頼は日々の積み重ねの中から生まれることを忘れてはならないだろう。