スレスレが旨い
なぜだろうか?骨やタネのまわりを包んだ肉には、プルプルとしてそそられてしまう。
まず、いちばんに頭に浮かぶのは柿の種だ。舌の先で果肉からはずし、まわりのゼリー状の部分をきれいに剥がす。
介護を受けながら暮らすぼくにとって、この手の話題になるとどうしても似かよったストーリーになってしまう。つまり、善意と効率と個性の絡み合いだ。
よく気が利いたり、仕事の効率を重視したりする介護者であるほど、皿にもられて目の前に出される時点で、柿のタネはキッチンのくず入れネットに捨てられている。
もちろん、あのゼリー状のプルプルを味わうことはできない。
そんなとき、ぼくは渋い気持ちになる。細かく指示してまで、あのプルプルのためにエネルギーを費やさなければならないのか、それとも、スルーするほど些細なことなのか、本当に微妙なところなのだ。
そこには、おたがいの人間関係が侵入してくる。言いやすかったり、遠慮してしまったり・・・。さらに、そのときの体調や精神状態がコトを複雑にさせる。
骨付きカルビは、もっとややこしい。
ぼくには上の前歯がない。だから、あの骨のまわりのスジの部分を自力ではずすことは難しい。
それでも、食いしん坊はなんとかかじりついて、事態を打開しようとしたくなる。
突然だが、もし、自分が介護者の立場だったら、じれったくなって相手からブツを回収し、きれいに骨からわけて出すだろう。 おそらく、そのときは善意を利用するに違いない。
ところで、ぼくにとって、頼みやすい介護者の外見の特徴は後ろ姿にある。
二十四時間介護を受けていると、意外に介護者が背中を向けて作業をしている場面が多い。 洗濯物を干していたり、部屋を掃除していたり、料理をつくっていたり・・・。
あまり作業に集中されていると、声をかけるタイミングを失ってしまう。
とてもハードルの高いことだけど、心のどこかに余裕が持てると、背中の表情も柔らかくなるだろう。
障害のある人とない人の遠慮や心遣いのすべてが、悪いわけではないような気がする。
「障害のある人とない人」と書いたけれど、そんな枠組みをこえたところにも、一人ひとりが生きてゆくために、それぞれのコミュニティーがスムーズに働くために、すこしの遠慮や心遣いが必要ではないだろうか。 相手をイメージする過程が大切ではないだろうか。
技術の向上が余裕につながることもある。
人間が好きで、仕事プラスαが見えてくることもある。
ぼくには、なんでも話したくなる若者がそばにいる。信じたいと思う。