「らしいなぁ」
最近、投稿ページの先頭にあげている写真は、それなりのインパクトを持っているのだろうか。
Tシャツは、近所への買い物と部屋着を兼用したヨレヨレだし、短パンではなくてせめてジーパンにすればよかった。それに、指先もキレイに磨きをかけておきたかった。
「それじゃあ、撮り直したらええやん」という声が聞こえてきそうだ。
このところ、よく書いている「面倒くささ」が理由かというと、ちょっと違うような気がする。
すこし話は迂回するけれど、高田渡さんは生涯「長屋ぐらし」をつづけていても、人前ではとてもオシャレだった。
それはファンに対しての礼儀だったのかもしれない。
はてさて、ぼくが写真を換えない理由はといえば、普段の自分を伝えたいからかもしれない(相変わらずあいまい)。
年齢を重ねてプライドを意識するようになったし、文章を書き進めながら「カッコつけだなぁ」とつくづく思うようになった。
だけど、いつもは写真の風体で町をうろついている。
たぶん、障害者一人ひとりにもカッコ悪さがあることを、いちばん伝えたいのだろう。
四十年近く、電動車いすのレバーを握りつづけて、指の関節のあちらこちらに凹凸ができている。
ぶかっこうだから、しわを刻んでいたり、粉をふいていたりするほうが自然な気もしてきた。
この秋がいまの車いすに乗りはじめて六年目、新車を申請できる時期がやってきた。
次の六年を見通すと、「ひきこもりコロナ」からの復調もふくめて、身体の老いも想定して、愛車をつくらなければならないし、時間をかけて慎重に進めなければならない。
いずれにしても、「なければならない」に直面すると、いろいろな制限と向きあいながら、難しい選択を迫られる。
しばらく、モニターを見つめながら考えてみた。
友部さんがライブで唄いつづけるかぎり、ぼくはどんなスタイルで車いすに乗ってでも聴きに行きたい。
支えがあるぼくは、幸せだと思う。