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サボテンの花
横たわる背中にかすかに感じるツンツンとした無数の突起が、明と暗であったり、動と静であったり、あるいは優しさと険しさといった意識の渦の中に存在する対立したもの同士の境界線をぼやけさせる演出をしているみたいだった。
住み慣れた部屋ではなかった。
天井は高かったし、白かった。
いつも寄り添ってくれているはずの室内用の物干しにかけられた下着やTシャツは見当たらなかった。
ベッドの片側は普段どおりに壁に寄せられていたけれど、もう片側はホールのような広い空間とつつぬけになっていた。
ぼくは戸惑っていた。
自分がこの場所にいることに、理由を見つけられずにいた。
もうすこし端的にいえば、ここがどこなのか「解らない状態」に陥っていた。
ぼくはその理由を思いあてる努力はせずに、力ずくで体をよじりながら、ずっと使ってきたベッドと車いすの往復をするための移動用リフトや、いつごろからかのおつき合いかもおぼろげになっていた半円形のテーブルをひたすら眼で捜していた。
ぼくを使い慣れたものに執着させたのは、片側の白い壁が住みつづけてきたままにカレーの汚れが残っていたり、沖縄の放送局のカレンダーがかけられていたり、いつもの部屋そのものだったからだ。
ふと枕もとに眼をやると、ちいさなサボテンの鉢が置かれていた。
ラグビーボールを立てたような球体に、レモン色の花がふたつ開いていた。
いつまでも意識から離れないほどの鮮やかさだった。
愛着のある一つひとつを捜すことに必死になっていた心と体は、レモン色の鮮やかさには応えずに、硬直した指がトゲに触れた痛みの想像へと音のない音を立てながら、またたく間に切りかわってしまった。
それからは、延々と意思に反してトゲに近づこうとする右手との格闘がつづいた。
眼が覚めると、汗まみれだった。
ヘルパーさんを呼んで、よく冷えた玄米茶を飲ませてもらった。
汁ものの具が詰まらないように買い換えたストローだったけれど、できることならコップに直接クチをつけて、ガブガブと飲み干したい気分だった。
障害を受け容れられない瞬間は、いつも突然に訪れる。
日常のあまりに些細なことばかりだから、束の間に顔をのぞかせ、サッサと意識の底へ姿をくらませる。
それにしても、「ひとり相撲」はぼくのような脳性マヒの障害をもつ人のためにある言葉ではないだろうか。
意識すればするほどに、意思とは正反対に全身が反応してしまう。
ラジコのタイムフリーで昨日の高校野球を聴いていたら、ピンチを背負ってコントロールがままならなくなってしまった投手がいた。
プレッシャーがそうさせるのだろうか。
藤浪くんが、ストライクをとれなくなりはじめると、他人事ではなくなってしまう。
イップスに悩むスポーツ選手たちにも、下町の文化住宅の片隅にお椀のみそ汁がそばにきただけで、手が跳ね上がってしまったり、腹を立てているわけでもないのにヘルパーさんの顔にパンチしてしまったりするオッサンがいることをお伝えしたい。
そして「このオッサンも仲間やでぇ」と、肩をポンとたたきたい。
意識をコントロールすることは、ほんとうに難しい。
メンタルを科学できる時代が到来しても、人は神にはなれないのだろう。
不完全だからより良いものをめざすのだろうし、その葛藤に価値を見出す人がいて、努力の積み重ねが感動を呼ぶのかもしれない。
一方で、ぼくのように「できないこと」を良しとして、ありのままを受け容れようとする価値観がある。
あまりにもテリトリーが違うので、混ざりあうことは難しい。
ただ、突き詰めていくと、一人ひとりの充実であったり、納得であったりにたどり着くような気がする。
ほんとうにクドイけれど、ぼくは障害をもって生まれたことで、身のまわりのことがひとりではできないことで、数々の個性ある一人ひとりとめぐり逢えた。
だから、結果としての感動や連帯感はいいけれど、はじめから「何か」に利用することを意図してほしくはない。
それにしても、藤浪くんは復活するのだろうか。
あれほどクローズアップされたら、大変だろうなぁ。
こんなことを書きながら思った。
ぼくがここに取り上げること自体、ゼロが無限大につづくナノほどのわずかさであっても、彼にプレッシャーを与えることにつながっているのではないかと。
何か申しわけない気がする。
ときどき登場する「明け方の夢」が、これほど長くなるとは思わなかった。
長くなりついでに、子どものころからのぼくの悩みをひとつ。
意思とは正反対に動いてしまうぼくの障害の特徴は、つき合い慣れていない人に誤解をあたえることがある。
正確に伝えようとしたり、想いが熱くこだわりを持っていたりする内容のとき、どうしても目いっぱいに力んでしまう。
表情は険しくなるし、口調もきつくなって「こうでなければならない」と、相手に対して全否定しているように聴こえてしまいやすい。
コレで何度も失敗をくり返してきた。
つき合いが深くなればいいけれど、「コワイ人」だったり、「ガンコな人」だったり、ぼくの想いとは逆のベクトルに引きずりこんだままで「さよなら」した人もたくさんいた。
それにしても、話はめぐりめぐって、こんなオッサンのたわ言が琴線に触れて、肩の力が抜けるアスリートが出てこないだろうか。
自分自身の心に見えないメダルをかけられた人は、どれぐらいいたのだろうか。