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普段着のままで

 ぼくの電動車いすは、十三大橋にかかろうとしていた。すぐ後ろには、気心しれたヘルパーのAくんがいた。唐突に、彼が話しかけた。
「週末にね、映画を観に行ってきたんですよ・・・」
そこから、しばらくストーリーと感動した気持ちを話してくれた。

 ぼくは根っからの話好きだ。しかも、とてもまわりくどい。五分もかからないストーリーを三十分近くしゃべってしまう。
必然とヘルパーさんは、聴く側にまわる。

 だけど、ぼくはぼくで、いつも物足りなさを感じている。
こちらから切り出す話題は、当然のことながら自分自身が遭遇した出来事なので、見聞きした内容ばかりになる。よほど相手がちがう意見を正直に語ったり、想像を超える言葉が返ってきたりしないかぎりは、オモシロイ展開にはいたらない。

 最近は、傾聴なるものが流行して、「こいつ、仕事として聴いているな」とか、「無理に話を合わせているな」などと思ってしまうことも増えた。
とてもガッカリする。

 ネット関係のことで、Aくんにヘルプを求めるときがある。急用で、自宅に電話することもある。
そんなとき、ぼくの勘違いか、すごくうれしそうな声が聴こえてくる。
ひとつ訊ねると、五倍ほど返してくれることもある。

 性格を発信型と受信型に分けると、Aくんは発信型にちがいない。
ただし、彼もたくさんの出逢いの中で、他者の考えを受けとめるように心がけているらしい。

 ヘルパーさんが洗い物をはじめたとたん、オシッコがしたくなるときがある。そばにいるうちに言えばよかったと後悔する。買い物に出てもらってから、早急に必要なものを思いだす。戻ってきたのに、言いだせない。
いろんな立場のいろんな人が、気をつかわなくてもよいと言う。理屈は解る。
それでも、理屈は理屈でしかない。ぼくの気持ちは遠慮へと向かう。

 長時間介護のわが家に出入りして、どっぷり空気に馴染んでいるヘルパーさんの中には、受信型の人もたくさんいる。一人ひとりの持ち味はちがうけれど、お願いしたことをコツコツと取り組んでもらえる。

 個人の家庭に訪問する介護は、日常のありふれた内容ばかりだ。トイレにしても、食事にしても、お風呂にしても、生きていく上で切り離せないものなのに、サポートする側からみれば変わりばえのないくり返しとして、心に落ちていく危うさをはらんでいる。

 そうした単調になりやすい、モチベーションを持続させにくい中で、受信型のヘルパーさんの存在は大きい。
コツコツと取り組む姿勢には、安定感と安心感があり、なんでも遠慮なく頼むことができる。

 世の中は、発信力が高い人ほど評価されやすい。でも、同じタイプの人ばかりだと、いさかいが絶えなくなるのではないだろうか。
もっと言えば、二つのタイプが調和していきやすい社会が築いていけるのではないだろうか。

 説教くさくなってしまった。
 受信型の代表格であるSくんは、ぼくの硬直でパンパンに張った背中をほぐしてくれる。精神的にしんどい日ほど、やさしい背中になる。
昨日も物忘れがひどくなったぼくのために、何度か近所のスーパーを往復してもらった。
申しわけなかった。

 一人ひとりが普段着で暮らし、働けたらどんなにリラックスできるだろう。
簡単に「自分らしさ」と言いたくなるけれど、本人にはこれほどわかりにくいものはない。
すこしゆとりを持って、まわりの声を聴くことができたら、自分らしさがちょっとわかるだろうし、一人ひとりのイメージも描くことができるかもしれない。
 ひとりの方が楽な人もいる。いろいろな人が認めあって生活があり、社会がある。


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