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ヘルパーさんの言葉遣い
「清拭」という介護用語がある。お風呂に入る代わりに、全身を熱いタオルで拭くイメージだ。
自宅のお風呂を使うことが不可能なぼくは、週二回の訪問入浴のお世話になっていて、ほかの日は寝る前に「清拭」をヘルパーさんにお願いしている。
この言葉には、ぼくも愛着をもっている。
文字に書いても、声に出しても、柔らかさと相手に対する思いやりと敬意が感じられる。
いまよりももっとカタチにこだわっていたころ、普段の会話の中で介護用語を使われることに、ぼくはとても敏感になっていた。
介護者と向きあうとき、そのほとんどがぼくにとっては暮らしの場であり、相手にとっては働く場になる。
一緒にまちを歩き、わが家で過ごす時間には、あまり仕事感を持ちこまないでほしいと考えていた。
作業所ではそれなりに責任のある立場だったし、公的な会議などに出席して疲れることも度々だった。
いろいろな肩書からはなれたときぐらいは、ゆったりとした気持ちでいたかった。
冷静になれば、誰だって職場では仕事のスイッチが入るのは当たりまえだ。
ぼく自身も例外ではなかった。
あのころ、やつあたりをしてしまった人たちに対しては、ほんとうに申し訳ない気持ちになる。
ぼくが一番キライだった介護用語は、「食介」だった。読んで字のとおり、食事介助を短縮したものだ。その言葉を耳にするだけで、怒りのスイッチが入ってしまう日もあった。
「清拭」には日々の表情が感じられても、「食介」には機械的な空気ばかりが漂っていると、いまでも思う。
こうして紆余曲折しながら、すこしづつ鈍感でありたいと思うようになる。ただ、「鈍感でありたい」ということは、意識している証拠に違いない。
だから、いまでも苛立つ場面に出遭う。そして、そんな自分に対して落ちこんでしまう。誰も得をしない。
おもしろいエピソードがある。
ぼくが契約しているヘルパー派遣事業所で、とても信頼しているスタッフのひとりにNくんがいる。
ある日、事業所から送られてきた書類に「ご利用者様」といういかにもぼくを刺激しそうな言葉を見つけた。
預かってきたスタッフに訊ねると、Nくんが提案したらしかった。
「ご利用者様」という仰々しくて、距離を感じさせる言葉を見つけたときの苛立ちは、彼の名前を聴いた途端に妙に鎮まっていった。
すこし経って、ご本人と顔をあわせることがあった。
抵抗感を伝えたけれど、話は平行線をたどりそうだった。
絶妙な思考のバランス感覚をもつ彼だから、深く掘り下げなくても事業所としていい方向へ進む過程のひとつに思えてきた。
いつの間にか、いつもの世間話に突入していた。
身のまわりのどんな難しいテーマでも、考え方が枝分かれしていたとしても、最終的には一人ひとりの信頼関係がカギになるのかもしれない。
その人が立つ土俵を見極めることが大切なのだろう。
言葉は心に通じている。
わが家に出入りして、十五年近くなるヘルパーさんがいる。
彼は、初対面から変わらず、ずっと丁寧語を使いつづけている。
けれど、ある面ではほどよく距離感をもちながら、おたがいが万華鏡のようにその場その場に合わせた関係になる。
他人を信頼することは、危険と隣り合わせかもしれない。
それでも…。