生ぬるい缶コーヒーと筑前煮
六十代に入って、食生活に変化が起こりはじめている。
まず頭に浮かぶのは、ジュース類に惹かれなくなったことだ。
つい二~三年前までは、コンビニのジュースの棚に「新発売」のポップが見えると、手当たり次第にお試ししていた。
ところが、それほど意識しないうちに、お弁当とお惣菜のコーナーにしか足を運ばなくなった。
一時期は自宅のお茶を水筒にいれて持ち歩いていた。
ただ、いろいろなヘルパーさんが介助するので、わりと短期間で不具合が生じてしまうこともあって、水やお茶はスーパーなどで購入するようになった。
それから、単純に「眠気覚まし」のために、一日に一本は缶コーヒーを飲む。
ジャンルを超えて、コンビニの半値以下で購入できる。
お弁当やお惣菜もひっくるめて、スーパーや量販店のお世話になるようになった。
この変化が、さらに新しい展開へとつながっていく。
真夏でも、キンキンに冷えた飲み物が苦手になってしまった。
ブルブル汗をかいて、コーラなんかを一気飲みすれば最高の幸せを手にした気分になっていたのに、あの実感からどんどんと遠ざかってゆく。
人間は欲張りだから、ある種のゾーンをひとつ手放すと、すこぶる残念な気持ちになってしまう。
それにしても、こんな展開になるまでは常温の飲み物の棚を不思議な思いで通り過ぎていた。電気代をケチっているとしか思っていなかった自分がアサハカだった。
すこし善意に受けとめすぎているのかもしれないけれど・・・。
そういえば、どんなにノドが渇いていても、マグカップのお茶さえ一気に飲み干すことができなくなった。そんなに深くないのに、半分ほどでひと息つかなければ、意識が遠のいて逝きそうになる。
いま、書いていて、ふと思った。
このマガジンの内容の三分の一くらいは、「老い」によってできなくなったことをツラツラと並べている気がする。
でも、感情は複雑だ。
この喪失感を意外に楽しんでいるのかもしれない。
心底、おもしろい。
今度は、年寄りの好奇心をひとつ。
今日の夕食のメインは、苦手メニューAランクの筑前煮だ。
ぼくは、筑前煮を旨いと感じたことが一度もない。
和洋を問わず煮物が好きなぼくは、よくおすそ分けしていただく場面があった。
お相手がそのまま帰らないでいっしょに食事をすることになると、口にしないわけにはいかない。ここ一番のつくり笑顔で、幾度ごまかしたことだろうか。
わが家では、毎日の献立をぼくが考える。
料理を自分で作るわけではないのに、「食」にかかわるゴタクを並べ続けている。
施設で暮らしていた若いころ、「あんたら、食べることしか楽しみないわなぁ」と実感を込めてつぶやかれ、とても悔しかった記憶がある。
けれど、いまはそのスタッフの言葉が身に沁みる。
いま、毎日の楽しみの大部分は、食べることかもしれない。
ぼくは、ひそかなたくらみを心に描いていた。
料理上手な家事ヘルパーさんがくる日に、あの苦手な筑前煮をお願いしてみようと。
まずゴボウやレンコンやニンジンのゴロゴロした食感が気に入らない。
それから、カシワのギトギト感が気に入らない。
薄目で仕上げればよいのか、濃い目が合うのか、ハッキリしないところも気に入らない。
そんなこんなの洗いざらいを料理上手の家事ヘルパーさんに伝えた上で、お願いしたのだった。
これまで通った中で、グンを抜いて旨い大衆食堂の日替わり定食の一品に筑前煮が登場した日があった。
まろやかで、ほどよい煮込み加減はさすがだった。
それでも、日替わりの一品に筑前煮が並ぶとわかっていたら、別の定食を頼んだだろう。
それが、ぼくの食後の正直な気持ちだった。
それでも、ぼくの好奇心をくすぐる腕利きヘルパーさんなのだ。
泊まりのヘルパーさんがやってきた。
このあたりでカーソルをとどめて、夕飯の支度をお願いしよう。
いくつになっても、「悪あがき」はまんざらでもない。
今日はこんな内容なのに、わが家のオーディオでシンクロニシティとはかかわりなく、いま友部さんが「ぼくは白人じゃない、ただそれだけのこと」と、くり返し唄っていた。
ぼくという人間を形づくる要素のなかで、「障害」は大きな塊ではあっても、それがすべてではない。