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帰り道
ぼくは東京が好きだった。
大阪へ出てきて間もないころ、学生バイトでぼくの夜間の暮らしをささえてくれた友人がいて、音楽と食の趣味がピッタリ合って、卒業後も縁は切れることなくつづいている。
いま、困ったことが起きてしまった。
東京での思い出を書こうとして、朝から繁昌している駅前の大衆居酒屋でのあれやこれやを言葉に換えようとしたら、店名はもとよりどこの駅前かも出てこない。
ドジョウ鍋が五百円で、スッポン鍋が七百円そこそこだったと思う。
破格の安さと旨さに、ただ夢中になっていただいたことを憶えている。
だいぶ腹具合が落ち着いたころ、厨房から出てきた中年の店員が威勢よく賑わうテーブルに向かって声を張った。
「いまから絞めたてのスッポンの血の大盤振る舞いだよ!タダだ!タダだ!タダほどお得なものはない!どうだ、どうだ!こんなチャンスはめったにないよ!」
「オレも!」、「こっちも!」
勢いよく、何人かの手が挙がった。
こちらも声を張り上げようと思ったが、スッポンの生き血の効用はいろいろと知っていても、彼女と別れた心の傷を引きずったままのぼくだったから、そんな力を借りる必要はなくなっていたし、なによりも「味」の予測がつかなかった。
生き血のつがれた湯呑みは次々と客の手に渡り、またたく間に大盤振る舞いは終幕を迎えた。
後から思えば、逃した魚は大きかった。二度とあんな場面には出くわさないだろう。
スッポンの生き血のインパクトが強烈すぎて、同席していたのが友人だったのか、ヘルパーさんとのコンビだったのかよく憶えていない。
駅名が出てこなかったばかりに、「スッポンの生き血」から入ってしまった。
とにかく、彼には新宿ゴールデン街のカウンターだけの飲み屋に案内されたこともあったし、浅草や深川を歩いた午後もあった。
彼が学生バイトしてくれていたころ、いっしょに外食するといえば、ふつうの住宅街の一角に三~四件並んだ飲食店の中の半ナマのバッテラが絶品の寿司屋だとか、店を切り盛りしていたおばちゃんが「これだけは二十年ほど変わらない値段でだしてるわぁ」と自慢していた三百円の焼うどんのトリコだった下町の大衆食堂といったカウンターが中心の庶民のための名店ばかりだった。
だから、その印象が強いのか、案内してくれる店はこじんまりとした構えをしたところや、これ以上ないほどの「ふところにやさしい店」がほとんどだった。
彼には東京の食と街歩きだけではなく、研修や集会の参加(動員ではない)で上京したとき、同行のヘルパーさんだけではビジネスホテルでの車いすとベッドの往復が難しいので、宿泊の夜と朝にピンポイントでサポートに来てもらうことも多かった。
近くの友人に力を借りることもあるけれど、遠くの友人の存在も大きい。
東京には、上の兄の家族も暮らしている。それでも、肉親の方がどうも声がかけにくい。
行き帰りは、新幹線を利用することがほとんどだった。
行きは新大阪までヘルパーさんにつき添いをお願いして、下車駅で友人と待ちあわせるパターンをよくつかった。
新幹線の車内ではひとりで過ごした。
たいがい、車いす用の個室だった。
個室に案内されると、車掌さんにドアを開いたままにしておくようにお願いしていた。
ぼくの楽しみは「ワゴンサービス」だった。
ガラガラとキャスターの音が聞こえてくると、タイミングよく声をかけるために軽く息を整える。
間近になると、姿が見えるまでに「すみませ~ん!」とアクションを起こす。
緊張するとすぐに声が出ないときがあるので、早めの始動が肝心だった。
「今日はどんなパーサーかなぁ」
束の間の下心であって、そこから「なにか」がはじまることなど期待するはずがない。
好みの目鼻立ちだったり、心のこもった接客だったりすると、充実した旅のアクセントになるに違いなかった。
意気盛んだったころはストローでビールを飲ませていただいていたし、アルコールから離れてからはかならずリンゴジュースだった。
まさに、一期一会の旅のご縁だった。
いつまでも、ぼくは大阪人にはなれないことを意識していた。
いつも、新幹線が京都駅へ着くと、鼻の奥が痛くなるような感覚がこみ上げて、ほっとした気持ちになるのだった。
新大阪まで戻ってきても、大阪駅を出て梅田のビル街を見上げても、なつかしさを感じることはなかったし、安堵する気分にはなれなかった。
最後に東京の友人を訪ねたのは、一昨年の秋だった。
食通ヘルパーのHくんと行ったので、一泊二日目の朝に友人に車いすに乗るためのサポートをしてもらってから、「阿佐ヶ谷あたりには、そそられそうな中近東やアフリカ料理の店があるから」と見送られ、「一駅だから歩こうか」と意見が一致して、中央線沿いに歩くつもりが迷ってしまい、残念な結果になってしまった。
でも、東京駅でめぐり逢った「深川弁当」はもの凄かった。
千円札一枚に小銭をプラスしただけで、アサリの佃煮が数えきれないほど入ったシンプルなご飯ものだったにもかかわらず、口いっぱいにほおばると、貝好きのぼくにはたまらない独特の旨味が広がった。また、いつかリピートしたいお弁当に違いない。
大阪へ出てきてから、三回目の引っ越しをした。去年の十一月だった。
最初の家も、前の家も、仕事先や遊びから帰ってくると、「もうすぐわが家だ」と、肩の力が抜けてゆく場所があった。
それは仕事の行き帰りにすれ違う登下校する子どもたちの通う近所の小学校だったり、雨宿りや眠気覚ましのコーヒーを飲ませてもらったり、緊急の電話のサポートをお願いしていたコンビニだった。
ぼくは親しみをこめて、「おばちゃんセブン」と呼んでいた(わが家のヘルパーさんたちにも共通語になっていた)。
ぼくはおっとりと話す。物事を白か黒かでわけることにためらいをもつ。
厳密に言うとぼくのふるさとは「丹波」だけれど、曖昧さを良しとするあたり、二枚腰三枚腰にものを受けとめようとするあたり、京都の風土に相通じるところがあるのかもしれない。
せかされると、落ちつかない。早口で押しまくられると、すぐに土俵を割ってしまう。
いまのところ、大阪で人生の幕を下ろすつもりだ。
そうすると、この異郷感とずっとつき合っていくのだろうか。
夜霧朝霧ただよう丹波の山あいには、二十四時間介護を保障する社会基盤がまだまだ整いそうにない。
それでも、「帰る」勇気がぼくにはない。
すっかり忘れていた。冒頭で登場した大衆居酒屋があった駅名は「赤羽」だった。
ついさっき、ふと思い出した。なお、大衆居酒屋がいまでも営まれているかはわからないし、名前も憶えてはいない。
したがって、思い出の一片に留めるしかなくなってしまった。