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ボケたぼくへの贈りもの

 ぼくがまだ家族といっしょに暮らしていたころ(八歳まで)、おふくろに対して「どんな頭の構造なんだろう?」と不思議に思っていたことがあった。

 ぼくは四人兄姉(きょうだい)の末っ子だった。
おふくろが四人のうちの誰かを呼ぼうとすると、いつもこんな具合になった。
(ぼく=ヤスシに話があるとすれば…)
「タケシ~、ちがうわ、マモル~、ちがうわ、トモコ~、ちがうわ、ヤスシ~」
つまり、呼びたい名前が最後に出てくるのだった。
誰に声をかけるときも順番が変わるだけで、本命はいつも四番目に登場するのだった。
「おかあちゃん、ほんまにアホやなぁ~」
あまりに続けざまに起こるので、子どもながらに呆れてしまっていた。

 あのころのおふくろと同年代まで生きてしまって、似た現象が起こっているかというと…。
 わが家を訪れるヘルパーさんたちはあわせて三十人近くいても、ひとり暮らしだから大勢と顔を突きあわせる場面は皆無だし、彼や彼女と話していてご本人の名前を忘れてしまうまでには至っていない。

 ただ、最近になって、首をかしげたくなる一コマに遭遇するようになった。
(こんな感じ)
ぼく、
「A ちゃん、元気にしてるかぁ?」
ヘルパーさん、
「産休に入ったでぇ」
ぼく、
「え~っ?A ちゃん三人目ができたんか!」
ヘルパーさん、
「何言うとんの、はじめBちゃんって言うたでぇ!」
ぼく、
「そらないわ、ぼくA ちゃんって言うたはずやでぇ」
ヘルパーさん、
「いくらマスク越しで声がこもるいうても、A とBを聞き間違えるはずがないでぇ」
ぼく、
「おかしいなぁ?A ちゃんとBちゃんはぼくのなかでは別人やしなぁ?A ちゃんのこと考えながら、Bちゃんって言い間違えるかなぁ…?」

 「こんな感じ」と書いたけれど、これはつい最近の朝のヘルパーさんとの会話の再現。シフトが変更になって来れなくなったヘルパーさんの近況を、世間話の枕に使わせてもらったときのこと。
 誰かの話をするとき、思いもよらない人の名前が登場することが日常になりはじめたようだ。
 かならず、呼びたい名前が最後になってしまうおふくろの話も不思議だけれど、それに負けないぐらい、頭の中に描いていない名前が言葉として変換されてしまう現象も、ぼくには「ミステリー」としか言いようがない。

 こんな「ミステリー」のおかげで、Bちゃんを懐かしく思い出させてもらった。
 いつも明るくて、キレのある発音で話すヘルパーさんだった。
一音ずつの美しさをもった日本語にピッタリ!だった。
どんな内容でも、爽やかな気持ちにさせてくれた。
 それから、それから、もったいぶりたくなるほどビーフシチューが旨かった。
あのコクは、どうやって引き出していたのだろうか。
くわしく教えてもらっておけばよかった。

 言い間違えといえば、文章をつくるときに(、=テン・。=マルと入力してもらっているヘルパーさんには伝えている)、逆になってしまうことが一本の投稿で三~四回はある。
 つけくわえれば、以前だと文章の一節を一気に言葉にしていた。
でも、いまは二行ほどの長さであっても、丁寧にモニターを見ていないとヘンテコな順序にしてしまっていることが、こちらは数えきれない。
 ほんとうに、時間をかけてつくらなければならなくなった。
 言葉を思い出せなくて、いちばんのツレに電話でSOSすることもある。

 でも、思いもよらない名前が登場したり、言葉が出てこなくてあえぎまくった末にツレにSOSを出したりすることで、つながりを確かめることができる。
 これも「ボケたぼくへの贈りもの」なのかもしれない。
強がりではないぞ~💗(ぼくはナルシスト)

おかあちゃん、子どものくせにちょっとバカにしてたんや。
すまんかったで~。

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