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共感と尊敬
ぼくは、恵まれて生きてきた。
「障害」は個性だと実感し、いろいろな人に伝えながらも、「ぼく」という人間の内面を形づくるさまざまな背景や要素の中で、突出して毎日のほぼすべての部分に影響をおよぼしてきたカテゴリーに違いない。
素直に「障害」をプラスに受けとめられる理由は、これまで渡り歩いてきたそれぞれの環境の中で、数えきれないほどの出逢いを経験し、大切な結びつきを重ねられたからだ。
息長くおつき合いしている友人たちについて書こうと思ったら、短い期間でも、ぼくの心にほっこりするような温かさを残したあの顔この顔がつぎつぎとよぎっていくし、強烈なインパクトとともに過ぎ去っていった一人ひとりもいた。
時間の存在は、その長さによって一つひとつの大切な思い出をつくる場面をあたえてくれる。
でも、記憶をたどればたどるほど、いまは消息のわからなくなっている一人ひとりとの喜怒哀楽が思い出され、泣きそうになってしまう。
あらためて、一日一日を大切に一人ひとりと向きあっていきたいと思う。
ぼくと関わるすべての人と、丁寧におつき合いすることは難しいけれど。
ぼくの目線でみて、大切な友人にはふたつのタイプがある。
ひとつは共感しあう間柄だ。
ここに入る友人たちには、ぼく自身とよく似た性格が多い。
同じように、ウダウダとグチをこぼしながら、まわりの人たちとの折りあいを最優先にして、生きながらえている。
角度を変えて考えれば、人の顔色をうかがいながら生きているわけで、すごしてきた環境によって自己否定に陥ってしまうこともめずらしくはない。
ぼくの場合、そのあたりがややこしくて、加川良さんの「下宿屋」という唄と出逢った夜をきっかけにして、内面の弱さや醜さに苛立ったり、許せなくなったりするたびに、もうひとりの自分が現れて、ときにやさしく、ときに醒めた眼をして見守ってくれるようになった。
やがて、あれほどぼく自身を追いつめていた弱さや醜さをいとおしく想うようになってゆく。
共感する間柄の友人たちには、誰に対してもフラットにつき合うことを想いながらも、思いのままにならない自分自身をどこかで肯定している人がかなりいる。
とても屈折した共感なのかもしれない。
一方で、苦手な人たちのカテゴリーには、ぼくと同じような弱さや醜さを持ち、それを自己否定してしまうタイプが多い。
なにか、「ビフォア下宿屋」のころの息苦しさを感じて、どうしても苛立ってしまう。
ほんとうは、自分とよく似た人なので、もっと落ち着いておつき合いできたらよいのにと思う。
大切な友人のもうひとつのタイプは、ぼくの描く理想を体現している人たちだ。
誰に対しても偉ぶらず、かといって媚びたり、へりくだったりもせず、力んだところに出会うことがない。
たまに訊ねてみても、「そりゃあ、人間だからバカにしたり、ビビッたりするときもあるでぇ」などと言葉が返ってくる。
「ほんとかなぁ・・・」と、ぼくは思ってしまう。
「思いこみコロナ」がきっかけになって、気持ちのバランスを取りにくくなってしまった。
もうひとりの自分が現れなくなってしまったし、大切な友人たちに心の内を打ち明けられないで、苦しむこともよく起きる。
こうして書き進めていると、交わった時間の長さにかかわらず、どれだけの人の影響を受け、それを支えにして生きてきたのか、あらためて実感してしまう。
気持ちがしんどくなれば、かならずといっていいほど、「いま」に閉じ込められている。
過去も、将来もなく、「いま」に縛られている。
もうひとりの自分とコンタクトをとりながら、たくさんの友人の顔を想い浮かべられれば、どんなにラクに生きながらえられるだろう。
明日を描くことはしんどくても、過去を思い出すことはそれほど難しくはない。
たくさんのあの顔この顔と過ごしていけるように、すこしだけギアチェンジできればいい。