ごみ箱といえば…
ごみ箱が気になるんです。あふれ出してこないか、気になってしかたがないんです。
百パーセントそんなことおきるはずないのに、やっぱり視線がそちらへ行ってしまうんです。
みなさん、ご察しでしょうか?
そうなんです。パソコンのスタート画面の左端に表示される「ごみ箱」のことです。
以前、容量がいっぱいになって、しょっちゅうフリーズしたことがあって、ごみ箱の中身はそれほど関係なくても、そんな経験がトラウマにさせるんですよね。
ゴミ箱といえば、六畳と四畳半とキッチンだけのせまいわが家にも、軒下をふくめれば三か所に置いてあるんです。
最近はちゃんと分別しないと持って行ってもらえないし、必要に応じてゴミ袋もスタンバイさせています。
でもね、自分の「障害」を受け容れられていないのかなぁ…。
雑なヘルパーさんが入ると分別どころか、散らかしてしまう人もいたりしてね。
「軟弱な小市民」のぼくとしては、他人に注意することはいちばん苦手だしね。
きちっとしたいヘルパーさんとの板ばさみになることも。
う~ん、結局、自分でできないことがもどかしいなぁって、還暦すぎても考えこんじゃったりして…。
もうこればっかしだけど、障害者の自立生活なんて世間は持ちあげるよね。
たしかに、割りきって考えられる人もいるけど、そんなにカッコイイもんじゃないわさぁ。
ただ、すっごく思うことが一つあってね。
ぼくみたいな「モジモジ障害者」がふつうにまちの人と一緒に生きられたら、世のなかもすこしは寛容になるかなぁって…。
(ここからはオマケ)
すこし自己矛盾を感じたので、書き足しておきます。
「今日の走り書き6」での「質が高い…」ですが、実はぼくもnoteへ投稿するにあたっては、誤字脱字からこまかな言いまわしや、漢字とひらがなの表記の仕方まで、自分なりの個性やクオリティーに心配りして書いています。
ぼくのこだわりの原点は「プライド」かなぁ…?
「障害者なのに、よく○○できるねぇ」なんて言われたり、口には出さなくても、きっと思っているだろうなぁって感じたり、そんなことがあったから、これもトラウマになってるのかな…。
五年ぐらい前までは、プライドなんて身の毛がよだつほどイヤだった。
でも、よく考えてみると、自分を意識しながら歳を重ねることが大事な気がして、それがだんだん大きくなって、ボケはじめた自分と向きあう今日この頃です。
この間、ラジオで高橋源一郎さんが「弱さ」について語っておられましたが、ぼくの心にもとても響きました。「軟弱な小市民」で「モジモジ障害者」の矛盾だらけの喜怒哀楽を書きつづけられたらと、あらためて気持ちの中の筋肉をピンと伸ばしかけて、我に返り脱力しました。