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ひとりの時間①

 一九九六年、夏、ぼくは山にかこまれた静かな障害者施設から、大阪のターミナルの一つ梅田まで三十分足らずの住宅街の一角で、ひとり暮らしをはじめることになった。
 
 ひとり暮らしをはじめるまでに生活していた施設には、言葉では語りつくせないほど多方面からお世話になった。
 ぼくが施設から出ようとした理由は、自由を手に入れたかったわけではなかった。
 
 さまざまな経緯があって、ぼくはあるご家族に多大な迷惑をかけてしまい、半年あまり呆然として過ごした。
 ほとんどだれとも会話しない毎日が続いたし、雪の降りしきるなか、半日近く建物の裏でぼんやりとしていた午後もあった。
 
 ある日、いつものように山間の風景を眺めていると、「このままでいいのか?」という問いかけが「心の内」に降りてきた。
 本当に春の淡雪のように静かに降ってきた。
 もう半年ほど経過した時間のせいか、あの日のままの衝撃からの出発の揺り戻しを避ける防御の心理からか、知らず知らずに、ぼくは久しぶりに視線を空まで上げていた。

 しばらくして、別の問いかけが降りてきた。
 自分自身にとって、傷つけてしまった人たちと、静かに見守りつづけてもらった人たちに対して、どうすれば報いることができるだろうか?
 
 すぐに答えは提示された。考えたわけではなかった。
 「自分らしく生きる」、この言葉が眼の前にうかんでいた。頭の中ではなく、眼の前に現れたようだった。
 
 そして、Yさんとの出逢いの場面が映画のワンシーンのように、「自分らしく生きる」につづいて再現された。
 そのころ、Yさんは小学校の教師だった。
 場所は、加川良さんの「下宿屋」という一曲をキーワードに、すっかり意気投合してしまった親友Iくん宅だった。
 
 初対面だったYさんは、家族を気遣い施設生活を選んできたぼくの話を興味深そうに聴いていた。
 一段落したとき、彼はすこし遠くに視線を送りながら、「迷惑かけるって、罪悪でしかないのかなぁ・・・」と穏やかに言った。
 
 あの夜、彼が「そりゃあ、おかしいよ!早く施設を出ることを考えなきゃ!」などとまくし立てていたら、「自分らしく生きる」と、ひとり暮らしとは結びつかなかっただろう。
 彼の言葉は、ぼくの意識の底にずっと沈殿しつづけていて、落胆と後悔と謝罪と空虚さの入り混じった毎日を経て、ふとザクロの実がはじけるように、現れたようだった。

 初めてひとり暮らしの決心を打ち明けたのは、入居者の生活相談担当のMさんだった。
 前夜、一睡もできなかった。完璧に猛反対されると思いこんでいた。
 介護体制について、昼間の過ごし方について、もちろん、ひとり暮らしを決意したいきさつについて、ある程度、引っ越し先の人たちとは話を詰めていたとはいえ、慎重にやり取りをシュミレーションしていると、夜明けになってしまったのだった。
 
 約束の時間が来てしまった。
 できるだけ、ゆっくりと説明するように心がけた。
 ぼくの強みは、子どものころから数知れない第三者に介護を受けてきたことだった。着替えから、食事から、トイレから、抱きかかえられ方から、あらゆる場面でのノウハウを伝える自信があった。
 相手の体格や性格や介護技術のレベルによって、融通をきかせることも含めてだった。
 
 それから、実際には遭遇しなかったけれど、介助者が来なくてもひとりで夜を過ごす自信もあった。トイレは、漏らせばいいと覚悟していた。

 さまざまな感情を抑えるように、Mさんはときどき座る姿勢を変えながら、それでも、まっすぐにぼくから視線を逸らすことなく、話が一区切りつくまでなにも言葉を挟もうとはしなかった。

 すこし間があって、彼女が切り出した。
 とてもゆっくりした口調だった。よく見ると、いっぱい涙が流れていた。
 「わたしの本当の気持ちを話すと、あなたの足にすがりついてでも、そんな危険なことはやめてほしいって言いたい。」
 ここで、また、すこし間があった。
「でも、人間には障害の有無にかかわらず、安心して安全に生きる権利があると思うの。けれど、それと同じように、危険を犯す権利があると思う。だから、誰にもあなたを引きとめる資格はないの。でも、本当はやめてほしい・・・」
 あとは、よく聴き取れなかった。
 ぼくは、頭を下げるしかなかった。「ありがとう」としか、返すことができなかった。
 
 彼女の言葉通り、ひとり暮らしの準備にあたっては、施設としてたくさんの協力をしていただいた。
 交通量の激しい道路への外出、介護技術の再確認、引っ越しの手伝い、泊まりのフォロー・・・。

 ひとり暮らしがスタートした。
 制度が整っていない中とはいえ、学生バイトのとりまとめに奔走してもらった障害者団体の人たち、同じくぼくのひとり暮らしのきっかけのきっかけをつくったYさんを中心にした教職員組合の人たち、朝だけとはいえヘルパーを派遣してもらっていた社協(正確ではないけれど、ちゃんと書くと長くなる)の人たち、障害福祉課の人たちも、みんな「大変なおっさんが施設を出てくる」と大騒ぎだったらしい。

 平日の昼間は作業所へ通い、泊まりは、その日その日の相手の都合に合わせるようになった。最初はタイムラグが出ないように、きっちりと時間調整していた。
 
 月末になると、壁に貼られた介護者リストと次の月のシフト表を見比べながら、一人ひとりに電話をかけてゆく。
週に一泊から二カ月に一泊程度まで、先方の都合によって頻度は違ったし、ドタキャンが出たときにフォローに入る人たちも、おおよそは決まっていた。
 京都の友人たちや朝のヘルパーもふくめれば、五十名前後の一人ひとりに、ぼくの生活を支えていただいたことになる。
 
 「あんたやから、出来るんや」とよく言われた。
 でも、予想以上に拍子抜けする毎日だった。
 介護に関しては、なにも不安はなかったけれど、大きなドキドキが実はあった。
 ずっと施設で暮らしていて、自分でお金をおろしたことがなかった。
 どうしてよいかもわからなかった。
 いろいろと相談にのってもらっていた障害者団体の人たちも、「あんたやったらなんでもできるわ」と言って、ありがたい放置プレイをしてくれた。
 
 とりあえず、銀行へ行く。印鑑は忘れなかった。
 窓口へ行って事情を説明すると、住所などを伝えるぐらいですべて窓口で対応してもらえた。
 本当に「な~んだ!アホみたい!」という感じだった。

 いまでもあの道を歩くと、どのお宅だったか、思い出そうと立ちどまるときがある。あの出来事がなかったら、その後の生活スタイルは大きく変わっていただろう。

 炎天下だった。
パンの配達を頼まれて、ぼくは作業所を出た。すぐご近所だったけれど、ほとんど土地勘のなかったぼくには、いったん迷うと目的地を探しあてるのは、不可能に近いことだった。
 交通量の激しい幹線道路や入り組んだ路地を電柱に貼られた住所を頼りに、くり返し往復するうち、見慣れない風景に変わっていった。

 車いすは暑い。左右と背中をかこまれていて、風は意外に通らない。
Tシャツやパンツやジーパンは、汗でびしょ濡れだったし、視界もかすんで黄ばみはじめていた。
もちろん、意識も朦朧としていた。
 
 そのとき、軒下で水遊びをしている若いお母さんと幼い女の子の姿が見えた。
 湿った空気に包まれているようで、なにも考えられなかった。
ただ、指先が勝手にコントローラーのレバーを操作し、二人のほうへ近づいて行った。そして、口が動いた。
「お茶をもらえますか?」
女の子を抱っこしたお母さんは、家の中へ入っていった。

 女の子を抱っこしたお母さんが戻ってくると、片手には麦茶がが入ったよく冷えていると見ただけでわかる曇ったガラスコップに、まがるストローがさされてあった。
 いただく前に、ちゃんとお礼を言ったのだろうか?よく憶えていない。
お母さんの手際のよさと、麦茶のおいしさと、みるみる意識が回復する感触はハッキリと思い出すことができる。
 ぼくは何度も頭を下げて、その場を離れた。

 すっかり元気になって、配達帰りの道だったと思う。
もう一度、お礼の気持ちを伝えに行けばよかったのに(書きながら思った)、とんでもない名案が浮かんだのだった。
「この手は使える!」

ひとり暮らしをはじめて、一カ月ほど経っていた。そろそろ精神的にも余裕が生まれて、施設では味わえない劇的変化を探しはじめていた。
「この手は使える!」とは、ひとりで「まち」へ出ても、困ったら、誰かにお願いすればなんとかなる、という脳天気な発想だった。

 その後、介護のシフトを組むときには、わざとタイムラグをつくり、「ひとりの時間」を満喫するようになる。
作業所が終わってから泊まりの人が来るまで、休日の昼間、ぼくは思いきり羽を伸ばした。

 初めて歓楽街のネオンを見上げたときは、都会を実感した。
 地域の体育館の人たちと仲良くなり、休日の昼間はトイレはもちろんのこと、事務室で食事までお願いするようになった。
 
 食事といえば、ファミリーレストランなどの人手にゆとりのありそうな店へ行き、介助をお願いすることもよくあった。
あのころはむせたり、喉につまらせたりする心配がなかったので、安全なこととずっとそばに付いていなくてもよいことを説明した。
 半分ぐらいの確率で、お願いは成功した。
 
 学校の先生たちが泊まりに入っていたこともあって、近所の学校へ行けばオシッコはなんとかなった。
 さすがに、年末年始は困った。学校も冬休みだし、公共施設も大方が閉館していた。
 そこで、思いついたのが宗教関係の道場だった。
 神仏のもとに集う人たちなら、お願いできるだろう。
 大正解だった。

 トイレに関して、幸運を感じるときがよくあった。
 ぼくは車いすに乗ったままで、シビンを受ければそれでいける。
 同じような硬直のある脳性まひの人でも、女性であればそうはいかない。
 ぼくの場合だと、初対面の人に車いすの乗り移りをお願いすることは不可能に近い。
 自分が女性であればどうするだろう?と、考えてみたことがある。
 実際に介護パンツを試したこともあるけれど、なかなかフィットする商品に出逢わなかった。
 
 もともとひとりで「まち」へ出る気持ちを後押ししたのは、裏を返せば自宅で過ごすにはお茶も飲めないし、トイレもできないし、ラジオのチューニングも合わせられない現実にあった。
 若いお母さんとの「麦茶の出逢い」をきっかけにした脳天気な発想には、「ひとりの時間」を阻むこうした背景があった。
 
 さまざまなリスクを負ってでも、ひとりにこだわる理由があった。
 それは、まちの人たちとダイレクトに関係をつくれる面白さだったり、自分のペースでウィンドショッピングや公園で一休みを気兼ねなくできる居心地の良さだった。
 
 市場の豆腐屋のご夫婦は、ぼくが行くと二桁の端数を切ってくれる。
 近所のコンビニのオーナーさんは、ほかの店舗ならレイアウトが商品優先で通路はどんどん狭くなるのに、いつまでもゆったりと動き回れるスペースを確保してもらっている。
 このまちには、たくさんの知り合いができた。
 ひとり暮らしでのいちばんの財産かもしれない。

 ひとり暮らしをはじめた当初から、いっしょに活動をしていた人たちが立ち上げたヘルパー派遣事業所にお世話になっている経緯もあり、制度を利用するようになっても、日々のヘルパーのスタート時間や待ちあわせ場所はアバウトだった。
 一時間近く遅刻しても、「ぼくらしい」と口をそろえてくれていた。

 ここまで、ずっと「まち」で暮らす明るい部分を書いてきた。
 一方で、しんどい場面にも数多く直面するし、ときおり「施設がよかった」などと未練がましいことを考える。

 特に、障害者関係の制度が整う中で、あたりまえに運動ではなく、仕事として割り切って関わる一人ひとりが増えた。
 食うや食わずでワチャワチャと熱くやってきた人たちと、働くことにかぎらず、いまの社会に対する受けとめかたや障害者観もさまざまになってきた。

 また、制度は整っても、あいかわらず介護をはじめとして障害者の日常生活は、どの分野も人手不足のままだ。
 たとえば、新しく二十四時間介護の人がひとり暮らしをはじめようとすると、いくつもの事業所が複合的にシフトされないと実現がむずかしい。
 個人の価値観も異なる中で、事業所間の考え方もそれぞれとなると、いよいよややこしくなる。
 
 いま、ぼくは在宅生活が中心になっている。ひとりの時間を確保することはかなり難しくなった。
 制度確立前とその後の人たちの違いにしても、目の前に横たわるテーマは哲学のように抽象的なものが多い。
 自立とは?自己決定とは?支援とは?…。

 同じ答えを導きだしても、立場やアプローチする角度によってまったく正反対に思える。

 ほんとうに、コロナの問題とよく似ている。
 どれも正解で、どれも間違いに思える。
 
 答えの出ないテーマをたずさえて、悩みつづけるぼくを、もうひとりの自分が腕を組み苦笑いしている。
 
 もうひとりの自分に見守られているかぎり、ぼくはぼくでいられそうだ。

 あらためて、いまの暮らしがよいか、施設にもどりたいか、自分にたずねてみた。
 
 六対四で、いまの暮らしに軍配を挙げたい。
 これまで書いてきたことと矛盾するけれど、お茶を飲んで二~三分してトイレが行きたくなっても、遠慮せずに声をかけられる。これは大きい!
 
 最後に一言。施設のほうが安全だという人(特に家族さん)は多いけれど、おそらくいまの基準でも、介護を目的とした大型施設では障害者五十名に対して、深夜帯などは二~三名程度のスタッフの配置になっていると思う。
 
 その施設のスタッフが良心的であるほど、ナースコールは鳴りっぱなしになる。トイレに行きたくなって、三十分近く待つことは普通に起こる。
 先ほど書いたように、都会でも介護の必要な人のひとり暮らしは簡単ではない。
 ただ、施設という「箱」と安全を安易に結びつけないでほしい。

 最後の最後に、先に書いたひとり暮らしか、施設かの軍配の「六対四」は、昔もいまもかわらない。得るものあれば、捨てるものありだ。

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