友部さんのこと1
痛みに耳をすます
ついさっきまで、noteの投稿の中の#友部正人で検索して、いくつか読んでみた。
丹波の山間の施設にいたころ、友人たちと企画して友部さんに唄いにきてもらったことがあり、その時代と重なる記事には懐かしさがこみあげた。
noteにはなんども友部さんとの思い出や、一つひとつの唄について綴ろうとして、その存在の大きさに想いが滞り、消去を繰り返してきた。
友部さんには申し訳なかったけれど、ぼくの投稿を友部さんの唄や言葉に響く人たちに読んでもらいたくて、全く関係のない内容にも#に友部さんの名前を入れるときも多かった。
今日、友部さんのことを書いた記事を読んでいて、体調を崩されていた時期があったことを知った。
渡さんも、良さんも、エンケンさんも、ミチロウさんも、みんな逝ってしまわれた。
六十年も生きてしまうと、いいことばかりではなくて、悲しいことや辛いこともたくさんあった。
でも、友部さんたちの唄を聴いていると、ぼくだけに語りかけてくれているようで、寄り添ってもらっているような、見守ってもらっているような、気がつくと、あったかい何かで気持ちがいっぱいになっていた。
来年、友部さんは唄いはじめて五十年を迎えると書いてあった。
「あっ、そうかぁ」と思った。
今日も、リハビリの人の訪問があった。在宅生活の長引く影響で、ライブを聴きに行くことすら難しいほどの時間しか車いすに乗れなくなり、なかなか以前の状態に回復できないこと、裏返せば、どうしたらすこしでも戻るかを話していた。
「唄いはじめて五十年」を読む前だった。
若いわけではないし、適当なところで目標設定をするつもりだった。
でも、唄いはじめて五十年目の友部さんをライブで聴くまでは、どうしても回復したくなった。
今日、ストレッチをしてもらいながら、腰の痛むあたりに意識を集中させてみた。まるで、耳を澄ますように。
張りがほぐれてゆくと、血液の流れを感じる。
年齢を重ねれば、さらに不自由が生じる現実は受け容れなければ仕方がない。けれど、感覚を研ぎ澄ませて、その変化に耳を傾けていきたいと思う。
そうすれば、おのずと道が開ける可能性が高まるのではないだろうか。
友部さんほど、いつまでも説教くさくならないミュージシャンはいない。
友部さんほど、まわりの人たちの気持ちを大切に想う人は多くはない。
たまたま、ライブをいっしょに企画した友人から電話があった。
ぼくがあれこれ伝えると、「五十年かぁ・・・」、「なんとしても聴きにいかんとあかんなぁ」と、はっきりした口調なのに、つぶやくように言った。
二~三年前のライブにも、おじさんたちとおばさんたちに混じって、若者がやってきていた。
すごくうれしかった。この世の中もまんざらではないと思ったものだ。
でも、裏腹な気持ちもある。あまりメジャーにはなってほしくはない。
こんなことはどうでもいい。できるだけ、長く唄いつづけてほしい。
「説教くさくならないで」なんて心配しなくても、友部さんはずっと、だれに押しつけるわけでもなく、自分の想いを唄ごえに乗せて、一人ひとりに投げかけつづけるだろう。
いま、枕もとのスピーカーから「夕日は昇る」が流れている。
「今度、友部さんにいつ会える」だろうか。
いや、かならず会いたい。
遅刻して行った磔磔で、はじめて観た友部さんは、「中道商店街」を唄っていた。知らないうちに涙が滲んだ。
あれから、三十年が過ぎた。
簡単には、書き進められないだろう。
それでも、思い出の一つひとつをゆっくりと紐解いていきたいし、唄と自分を重ねあわせてみたい。
そういえば、親友の射場くんの教え子だった「タッツン」は元気だろうか。ライブの企画に参加してくれていて、包容力のありそうな大学生だった。
ベッドの枕もとにはライブの打ち上げの写真がかけてあって、沈んだときに自然に視線がそちらへむかう。逝ってしまった友人もいる。
ほんとうに、すこしづつ書いていこう。