原点へ立ち返る
以前、車いすの人たちから訊ねられて「ムッ」ときてしまう質問があった。
「車いすでも入りやすいお店ありますか?」
ところが、ぼくの行きつけのほとんどは、入り口に段差があったり、車いすだと通路をふさいでしまったりといった店ばかりだった。
つくる人も、味わう人も、「旨いもの」へのこだわりは変わらないし、必然的に通じあう想いが生まれる。
ヘルパーさんだけではクリアできない段差も、店の人や常連さんたちの手を借りて席までたどり着く。奥のお客さんが帰るときも、かたわらをすり抜けるときに、「すんません」と頭を下げると笑顔が返ってきた。
暖簾をくぐる前に、断られることはめったになかった。
当然、ぼくのモノサシはバリアのあるなしではなくて、軒先に漂う雰囲気を優先するようになっていった。
新しい店の開拓にしても、よほど気になる空気でないかぎり断られると、さっさと諦めてつぎを探すことにしていた。
もうすこし具体的に書くと、ぼくの電動車いすだと入り口の幅が七十センチあれば通ることができる。見た目ではムリそうに感じても、意外にセーフなケースが多かった。
だから、バリアフリーな店を訊ねられてもあまり詳しくなかった。
といっても、ぼくには自分のモノサシを相手に押しつけようとする身勝手さがあったと思う。
優先順位は、一人ひとりの感性と場面設定によって、大きな違いが生まれる。
車いすでも「入りやすい店」を訊ねた一人ひとりは、安全を大切に考えていたのかもしれない。
店の人たちやお客さんに、気を使うことを嫌ったのかもしれない。
費やす時間を節約したい場合だってあっただろう。
いつごろからか、相手の状況を訊ね返そうと思うようになった。
けれど、このたぐいの質問をされなくなっていった。
ネットで簡単に調べられたり、すこしずつ入りやすい店も増えていったりしてきたからだろうか。
障害者に関わる差別(生きにくさ)についての法律などが整いはじめ、一定の社会的なコンセンサスが形づくられる過程にあるのではないだろうか。
一般の人たちへの周知が課題に挙げられるけれど、個人的な感触ではサービス業を中心に目にあまる対応はずいぶん減ったように思う。
一方で、「マニュアル通りやってるな」と感じ取れる場面も多くなった。
先日、ヘルパーさんとの世間話で盛り上がりすぎて、ずいぶん終了時間をオーバーしてしまった。
最近は、あだ名で呼ぶことも虐待になるらしい。
それぞれの関係性の中で「いつものこと」として、おたがいに心地よさを感じていたとしても、たまたま通りがかった行きずりの誰かが通報すれば、案件として成立するようだ。
その状況が理解できれば、平穏におさまることなのかもしれない。
ただ、ひとつの基準をすべてに当てはめる危うさを感じないわけではない。
施設で生活していた経験をふり返れば、閉鎖的な空間では厳しすぎるほどの基準がなければ、精神的にも、肉体的にもそれぞれのその人らしさは守られないだろう。
また、一人ひとりの関係に置き換えても、誰よりも自分が優位に立ちたいのが人間だとすれば、たやすく服従せざるを得ない状況に陥ってしまう。
わからない。ほんとうに、わからない。
こうして、社会的な縛りが増えていく先に何が待っているのだろうか。
入居拒否にあったことがある。
病院をたらいまわしされかけたことがある。
電動車いすでまちを歩けば、すれ違う人に顔をしかめられることもある。
ぼく自身、人を傷つけてしまったこともある。
もちろん、さりげない心遣いにもたくさん出逢う。
それにしても、この世の中の息苦しさは何なのだろうか。
すべてをコロナになすりつけて済むのだろうか。
ぼくは、硬直のために簡単に微熱が出てしまう。
週に二日の入浴サービスの検温は、いちばんの緊張の瞬間だ。
これまでに書いてきたテーマとは関係ないことかもしれない。
ただ、ちっぽけな自分を認識することが、何かの手がかりになるような気がする。