ぎんなん二つ
近所のスーパーが改装して二カ月ほど過ぎたというのに、まだ、商品のレイアウトが頭に入ってこない。毎日、行くわけではないけれど、いいかげんに段取りよく最短距離で目的のコーナーへたどり着けたらとちょっとイラついていると、やっと茶碗蒸しの並んでいるのが見えた。
サッサと家に帰って、マッサージをすませてから、清拭(身体を拭くこと)をして、夕食まで突っ走りたかった。
三~四種類の茶碗蒸しの中から、目にとまった一つをヘルパーさんに伝える。
「これ、一番高いですよ」との言葉もさえぎって、「大丈夫」と返す。
夏になると、スーパーの茶碗蒸しを週に二回は食べたくなってしまう。
だいたい百円前後だし、冷えたままでも食がすすむ。
ヘルパーさんがカゴへ入れかけて、念のために値段を確かめる。
一九八円ときいて、「まあいいか…」という感じ。
半額のシールの貼られた冷麺と合計しても、ワンコインでおつりが返ってきた。
二日前の穴子とほうれん草のお澄ましが汁ばかりになって残っていたので、卵を落としてもらう。あとは冷蔵庫の残りものをさらえて、さあ夕食。
三角食べで介助してくれるヘルパーさんだった。
食べはじめてから割と早い段階で、茶わん蒸しのひと口にぎんなんが入っていた。
ぼくは「不運だな」と思った。
茶碗蒸しの具材の中で、断然と表現していいほど、ぎんなんがお気に入りなのだ。
コロナで顔を出せなくなったけれど、通っている作業所から片道一時間近く歩いたところにある気の利いた居酒屋で、秋になると「焼きぎんなん」が達筆のおしながきに一行加わる。
ぼくにとっては、高級なお店だから三カ月に一回ぐらいしか足を運べない。惹かれるものを計算なしに注文すると、エライことになってしまう。
その点、秋は安心して訪れることができる。
「おまかせ三貫」と「焼きぎんなん」で、少なくとも二年ほど前までは千円でおつりが返ってきた。
焼きぎんなんの歯ごたえとほろ苦さの調和を忘れることができるだろうか。
さて、ぎんなんの早めの登場の残念さは心にとどめて、味は上品に整えられているとはいえ、ほとんど汁ばかりの穴子のお澄ましに半熟卵が入っただけで、こんなに豪華に思えるのはなぜか?などと気持ちを違う方向へ誘導しようとしていると、食事も中盤を過ぎたあたりで、ふたたびぎんなんが茶碗蒸しのひと口の中に潜りこんでいた。
ぎんなん一つで、ほんとうに驚いた。
値段を確かめるとき、ぼくはパッケージをジッと見つめた。
あの時点では、間違って買ってしまわないように、憶えておこうと思っていた。
けれど、いまは違う。たまには百円高い茶碗蒸しを食べるために。
ぎんなん二つで、ぼくの心は「大きく」動いた。
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