無題
大いに悩んだ。ぼくにとって、重要なテーマを書きはじめようとして、その位置づけに相応のタイトルに、どうしてもたどり着かなかった。結論を後まわしにしたり、ぼやかせたりしながら生きてきたぼくは、ここでも「無題」という明らかにおよび腰のかけこみ寺のような言葉を見つける。もう二~三分も思いつめていたら、過呼吸をおこしてしまいそうだった。
曖昧さのかたわらに「ふくみ」がある。「ふくみ」を持たせることで、ほどよく間合いがうまれたり、テーマの背景にまで踏みこめたり、その後の展開をフリーハンドで拡げやすくなる。
それは考えるときも、議論するときも、書くときも同じではないだろうか。
最近、ぼくは、つくづく日本が好きなんだなぁと、ありふれた日常のこころの機微にふれつつ実感する。
たとえば、思春期からずっと聴いてきた七十年代フォークの人たちの言葉の紡ぎかたであったり、一語一語を明瞭にした唄いかたであったりする。
日本語は歯切れがよくて、あたたかい。
老若男女のヘルパーさんたちも、例外的な存在は何人かいても、ぼくの生活スタイルと気持ちを大切にしながら、誰かの至らなさに気づいたとしても、それぞれに折りあいながら、仕事に世間話に花を咲かせる。あまり陰口を言ったり、相手に責任をなすりつけたりはしない。
コロナの拡がりで外出する機会は減ったけれど、それぞれの季節にはメインになる色合いがあり、ゆっくり歩けば都会でも移り行きを感じることができる。
「国家」などと一括りにすれば、急にその表情は見えなくなる。
だけど、言葉も、人の仕草やたたずまいも、それぞれの地方の風土も、とても素晴らしいと思う。
いま、ぼくは首をかしげている。
ゲリラ豪雨が通過した。文化住宅の一室を揺らすように、頭上近くで雷が鳴り響いて、Tシャツとブリーフ一枚でベッドに横たわっていると、目の前のモニターに集中できなくなった。
ぼくの言葉を入力してくれているヘルパーNくんは、聴き取りにくいマスク越しの声に耳をすませながら、すこしイタズラ心を発揮してビビる気持ちをかき乱していた。
もうすぐ、八百屋の店先にモモが並べられる。あの上等なエロスを漂わせた色あいと肌ざわり、そして、ほおばったときの品の良さと濃密な甘みをあわせた味わい。
まったく関係ない話を一つ。
昔、ある音楽雑誌で甲斐よしひろが吉田拓郎と友部正人(さん)を評して、「拓郎が太陽なら、友部は月だ」と書いたらしい。
同じようになぞらせてもらえれば、「パイナップルが太陽なら、モモは月だ」。
モモに心があるならば、失礼を書きすぎて訴えられるかもしれないけれど、形状は丸くても、三日月か、新月の闇の妖艶さが似合う。
ところで、大好物のモモに関して、二つの意味でのもったいなさを感じる。
一つ目は、値段の安さに惹かれて飛びつくと、期待外れにあたることもよくある。あとさき見ずに買ってしまった後悔からくるもったいなさ。
こちらは、冷静な判断を取れない自分自身へと矛先が向く。
二つ目は、期待を裏切らないように考えすぎて、品定めとその日の懐具合がかみ合わず、感動を味わうことなくひと夏が過ぎる後悔からくるもったいなさ。
こちらは、計画性のなさというか、行き当たりばったりを信条としているぼくとしては、信頼できる八百屋が電動車いすで往復一時間は必要なので、時間と懐具合のタイミングの悪さにため息をつく。
さすがに、一個五百円前後すると、お金がもったいない。
こうして、めったにモモをほおばることなく夏は過ぎていく。
「もったいない」は、ときに道具や食べ物にも命あるもののように大切に接する想いが日本から発信され、世界の共通語になった。
それにしても、ぼくが実感する「もったいない」は、いつも世界に誇れるものとは程遠い。
この原稿で取り上げたいエピソードがあった。
でも、それを書いてしまうと長くなる。
次の稿にゆずる。