雨男
ぼくが電動車いすで歩かなければならない予定が入ると、太陽が顔を見せた日はあまり記憶にない。
作業所の行き帰りは、いつも片みち小一時間は歩いていた。
晩春から初秋にかけては合羽を着ると、汗まみれになる。ムレムレになる。とても気持ち悪くなる。
いつのまにか、濡れることを気にしなくなっていた。四十代までは…。
合羽はポンチョ型で、アタマから通して車いすごとかぶれるタイプを使っていた。
ただ、ぼくの右腕は柔道帯で抑えていても、硬直で合羽を跳ね上げてしまう。
だから、車いすのステップや側面のフレームに裾を止めなければならなかった。
すると、今度はタイヤに絡んだり、向かい風を受けるとめくれ上がって、頭を被ってしまったりして、身動きが取れなくなることもあった。
ぼくは無防備でも少々のことでは風邪などひかなかったが、電動車いすのコントローラーは内部に水が浸入すれば、すぐに動かなくなってしまう。
止まってしまうのも困るが、一度だけレバーから指を離しても暴走しつづけたことがあった。
二十年以上前のことだった。
梅田の阪急デパートから東通りに渡る交差点で、ブレーキが効かなくなってしまったのだった。
平日の午前中で人通りが少なかったことと、ぼくの電動車いすは速度が遅めに設定してあることで、ぶつかっても大丈夫そうなビルの壁に向かったので、運よく何事も起こらなかった。
青信号になってからの出来事だったことは、何よりもの幸いだった。
しかも、業者の担当さんがたまたま梅田にいて、すぐに駆けつけてもらえた。
それから、ぼく自身よりも、電動車いすの雨対策だけは万全にするようになった。
その朝も、肌寒い秋の時雨空だった。
大阪でひとり暮らしをはじめてから、毎年のお誘いを受けている小学校の一年生のこどもたちへお話に行く日だった。
いつも給食の時間まで残って、こどもたちが代わるがわるに「ひとさじ」ずつをぼくの口へ運ぶのが、にぎやかなお約束になっていた。
作業所の行き帰りは慣れた道だし、すこしぐらい濡れても、周りの人たちが慣れているから着替えも頼みやすい。
でも、出先となると話は違う。
ぼくの投稿で、コンビニに入って買いものついでに店員さんにコーヒーを飲ませてもらったり、学校や公共施設やデパートやユニクロでトイレ(小)をお願いしたりしていた話を書いてきた。
けれど、手があいていればコーヒーはストローをさして口もとへ運べれば、十秒もかからずに飲み干せる。
トイレもぼくの説明を落ちついて聴ければ、シビンを受けるだけなので、初めてでもそれほど難しくはないし、ケガなどの危険度は皆無に等しい。
裏返せば、安全だから、安心して初めての人にでもお願いできた。
ただ、着替えとなると両腕を抑えたベルトを外したり、硬直で突っ張った上体や手足を曲げ伸ばしして、最初から最後まで整えるとなれば、相当なテクニックと時間が必要になる。なかなかお願いしにくい。
ずいぶん、横道にそれてしまった。
その朝の家を出るまでのサポーター(ヘルパー)はNくんだった。
顔は面長で、目力があり、鼻筋は通っていて、薄い唇はシャッキリと結ばれていた。日本人離れした顔立ちだった。
濃い目の茶色の髪を肩まで伸ばし、後ろへ流していた。
いかにもモテそうな彼は、正義感の強い青年でもあった。
お天気がよければ、小学校へ一時間も歩けばたどり着けた。
毎日、一時間かけて作業所への行き帰りをしていたから、ぼくの脳内の基準はその長さをセンターラインにして、「遠い・近い」が測られるように設定されてしまっていた。
よく友だちと話していて、四~五十分の距離は近いというと、ほとんどが驚いていた。
ぼくは時雨空と訊いて、バスを使うことにした。
わが家も、小学校も、電車の最寄駅から十五分ぐらい歩かなければならなかった。
エレベーターや電車の乗り降りを考えると、ずいぶん「手間」を感じてしまった。
バスの停留所は、歩いて五分もかからなかった。
下車してから、小学校までは十分足らずだった。
ただし、バスにも厄介な点はいくつかあった。
まず、最寄りの停留所に屋根がなかった。
早めに行きすぎると、濡れて待たなければならない。
家を出る頃合いがむずかしい。
慣れているといっても、なんとなく億劫な気分になる。
つぎに、バスは到着時間が前後しやすい。
早めに待っていると、なかなか来ない。
すこし遅れたときにかぎって、時刻どおりに到着していて、つぎの便まで待たなければならない。
書き遅れたけれど、これは十年近く前の話だ。
あのころ、いちばんややこしかったのが「車いす対応車両」の運行の頻度だった。
目的の小学校方面の便は、一時間に三便だった。
それぞれに終点は違っていても、どのバスが「車いす対応」なのかは、その日によってまったく不規則だった。
ただし、一時間に運行される三便のうち、二便程度は「車いす対応」という感覚の頻度だった。
車いすに乗る段取りをしていたNくんが手を止めて、ぼくに声をかけた。
「どのバスが車いす対応か、営業所に電話をかけなくてもいいですか?」
「大丈夫やわぁ。ぼくの感覚やけど、だいたい三台に二台は車いす対応やし、そんなことで電話かけるの、面倒くさいやん」
「それ、ちょっと無責任とちがいますかぁ?もし、遅刻したらどうするんですかぁ?」
ぼくは、ちょっとイラッときてしまった。
「そやから、早めに出るんやんかぁ」
Nくんも、ヒートアップしてきた。
「あの屋根のない停留所で、来るか来ないかわからない車いす対応を待つつもりですか?」
「なんで車いすやからいうて、いちいち電話で確かめなアカンねん」
「それだけ言うなら、勝手にしたらいいですわ。遅刻してもぼくの責任じゃなくて、ヤッサンの責任ですから。風邪ひいて、熱出しても知りませんよ」
おたがいにラチが明かないことを察知して、それからは黙って外出の準備を進めた。
なんとなく気まずかったので、玄関のスロープを降りてから「ありがとう」と、いつもより大きな声を張りあげた。
運よく車いす対応は、一台目でやってきた。
停留所が近いこともあって、あのころはよくバスを利用していたし、サポーターなしで乗り降りすることにも、ぼくだけではなくドライバーさんも慣れていた。
自然な接しかたに、すっかりバスのファンになっていた。
Nくんは、ぼくのそばにはもういない。
だから、すこし心苦しいけれど、ぼくの言いわけだけ書き足しておく。
まず、国道を挟んで停留所の向かい側にはなじみのコンビニがあって、車いす対応の車両が来なくても、つぎのバスまで雨宿りすることができた。
それに、個人の感覚はあてにならないといっても、毎日のように国道を歩いていたから、車いす対応車両の割合を把握しているつもりだった。
それから、Nくんにもドサクサに怒鳴ってしまったけれど、「車いすじゃなかったら…」がとても引っかかっていた。
でも、立場を逆転させると、かなり高い確率でNくんと同じことを心配して、ひょっとしたら、バスの営業所に電話をかけるかもしれない。
いま、冷静に思い返すと、Nくんの判断に軍配を挙げたくなる。
そのココロは「遅刻しないこと」が、いちばんの肝だと思うから。
Nくんとは、なんやかんやとよく口論になった。
彼は、ぼくの方が間違っていると思うと、時間があるかぎり引くことをしなかった。
サポーターという立場を振り捨ててでも、折れることをしなかった。
ときたま、口論のまま時間切れになることもあった。
それでも、つぎに会えばおたがいにアトクサレなかったし、もう一度話し直すと、頷きあうこともままあった。
きっと、同じ目線の高さでつき合えたから、暮らしの中での考えかたの修復ができたのではないだろうか。
三年ほど前、梅田の繫華街を歩いていると、スーツ姿の彼とすれ違った。
ヘルパーを続けているようには見えなかった。
あれほどぶつかって、あれほど気持ちよく過ごせたサポーターは、Nくんだけではないだろうか。