牛すじの行方
ただいま、午後十時二十分。オシッコをガマンしながら、この原稿を書きはじめる。ベッドの上で、タブレットを前にして三時間近く経った。
コロナについて、メインになるような自分の社会に対する思考にめぐり合って、さっそく、泊まりのヘルパーさんにスタンバイしてもらった。
ところが、ぼくの生活スタイルを百八十度インドア派に追いこんだ相手(コロナ自体だけではなく、アレもコレもふくめて)は、思いのほか手ごわくて、何度も白紙に戻した挙句に土曜日にまわすことにした。
きっと、これからの話も生きるためになんのプラスにもならないだろう。
毎日のように有意義な考えに気づいたり、感動のエピソードに出逢ったり、そんな生涯を送る人がいるだろうか。
ヘルパーのTくんは、食べることに興味が湧かないらしい。時間をかけることがバカらしいという。
「食べること」をテーマに、マガジンを一つ置いているぼくとはまるで違う価値観だ。
テーマひとつ、行為ひとつとっても、その重さは個人によって異なってくるし、同一人物であっても体調や周囲の状況によって、白にも、黒にも、「灰色」にもなる。
なぜ、灰色にだけ「」をつけたかというと、強調したかったからだ。
ぼくは頃合いとか、落としどころとか、妥協とか、折りあうとか、曖昧な部分を大切にする日本人の考えかたが好きだった。
ストーリーを筋立てて書こうとしているわけではないので、本題から知らず知らずに離れていってしまった。
ついでに尿意も薄らいだ。
ぼちぼちネタに入る。
ミステリーが起こった。
月曜日、ヘルパーさんに牛スジを百五十グラム買ってきてもらった。
アク取りが必要なので、家事ヘルパーさんの一日分の時間では肉じゃがはできあがらない。二日つづきのヘルパーさんなので、下準備とその後に分けて仕上げてもらった。
ひと晩寝かせて、水曜の朝食に温めてもらう。
「あれっ」と思った。ジャガイモとニンジンとタマネギとキノコは味わった。だけど、牛スジは口の中へ入ってはこなかった。
たまたま、鍋のどこかにかたまっているのだろうと思っていた。
別に、なにも触れずにスルーした。
夕食、泊まりのヘルパーさんにも、これといった説明はせずに肉じゃがを持ってくるようにお願いした。
やっぱり、牛スジは姿を見せないままだった。
ちょっと触れたかったけれど、恥ずかしくて言い出せなかった。
今朝、食事のサポートのヘルパーさんに伝えた。
なべ底に近いところに、一口大の牛スジがかたまっていたらしい。
ここまで引っ張ったけれど、これ以上は何もない。
こんな小さなことに、機微を感じている自分が面白い。
文学の流れに、庶民のありふれた日常をひたすら淡々と描く分野があるらしい。
ちょっと、気になる。