流れる映像の記憶
幼いころの記憶には、切り取られた写真のようにまったく動かないものと、その情景が見事なまでに鮮明な映像として残っているものがある。
一九六四年の東京オリンピックは、ぼくにとって最初の「鮮明な映像」を脳に焼きつけた。
ぼくは、おかあちゃんにおんぶされていた。よくサルを見に連れて行ってもらっていた公園近くの道路には、いっぱいの人垣ができていて、みんな日の丸を手にしていた。
でも、おかあちゃんはおんぶしたぼくのことが気になっていたのか、どんなに記憶をたどってみても、両手は小さなお尻を支えていた気がする。
たしかに、その感触がぼくには残っている。
おかあちゃんは小柄な人だったし、硬直でつんこばったり、ふらついたりする体をバランスよく支えるのは、並大抵なことではなかったのだろう。
人垣の合間から聖火ランナーの走る姿が見えて、近づき、目の前を駆け抜け、背中が遠ざかり、消えてしまうまで、わずかな時間だった。
それでも、ぼくは満足した気持ちになった。
おとうちゃんにだっこされて、ななめ向かいのヤマザキ電気で初めてカラーテレビを観に行った。
レスリングを中継していて、マットの色は忘れたけれど、組み合う選手の赤と青のユニフォームはハッキリと憶えている。
あのころ、わが家は木製のイカツイ台に、子どもの目からみればかなり大型のテレビが置かれていた。畳から二十センチほど高い床の間だったと思う。
毎日、楽しみに観ていた「ひょっこりひょうたん島」のオープニング画面のすみっこに「カラー」と表示されているのが、メチャクチャうらやましかった。
それから、五年後ぐらいにカラーテレビがやってきた。
話は微妙に前後するけれど、実はわが家に来るよりも早く、ぼくが入らざるをえなかった施設にはカラーテレビがあった。
もちろん、お昼間にみんなが過ごすプレイルームという大きな部屋だったので、ぼくの好き放題に番組を選べなかった。
それに、夕方の六時になると、八人部屋に戻らなければならなかった。
だから、外泊日に自分の家で観られるテレビは、特別だった。
東京オリンピックに話はもどる。
マラソンのアベベも印象的だったけれど、なぜか水泳のドン・ショランダーという名前をほかの競技のどの選手よりも「クッキリ」と憶えている。クロールが得意な選手ではなかっただろうか。
ぼくには、左右に腕を掻き進む豪快なフォームと名前をくり返す実況アナウンサーの高めの声が、いまでもそこにあるみたいだ。
とても腑に落ちないことがある。
といっても、ぼくの思い違いだったことは確かなのだけれど。
東京オリンピックの記憶の中で、一番ハッキリしているはずだったのが「閉会式」だった。
たどっても、たどっても、あのときぼくはテレビの前に寝転がって、ゴッホやゴーギャンやセザンヌの画集をめくりながら「四年後はメキシコで会いましょう」という実況に感動し、同じく「メキシコであいましょう」の文字が映し出された電光板を食い入るように見つめていた。
「つぎはメキシコか」とつぶやきながら、「きっと熱い国だろうなぁ」と何も知らないのに、そんなことを想像していた。
ちなみに、画集を眺めるのが幼いぼくのトレンドだった。
その映像は夜ではなかったし、時間帯も夕方だった。
どこで記憶が事実とすり替わってしまったのだろうか。
ぼくが勘違いをしていると判ったのは、半年ほど前にラジオを聴いていて、閉会式を記した三島由紀夫と井上ひさしの文章を耳にとめたからだった。
特に、三島由紀夫は線の太さと繊細さを併せもった優れた書き手だと、あらためて思った。
今回の東京オリンピックの是非に触れるつもりはない。
ただ、世の中の出来事としての初めの記憶が東京オリンピックだった。
ずっと書きたかった。
一九六四年、ぼくは四歳だった。