カレーライスとクリームパン
カレーライスを食べさせてもらうとき、「これはやめてほしい」ということがひとつだけある。
ぼくは、ルーとごはんをあまり混ぜてほしくない。よほど贅沢にルーを使わないかぎり、ごはんが最後の三口あたりであまってしまう。それが庶民の現実だ。
その味気なさを打開すべく、最初から満遍なくかき混ぜる人がいる。
ぼくは、その食べ方がイヤなのだ。まったく逆が好きなのだ。
後は野となれ山となれ、中盤にさしかかるあたりまで山ほどかけて満足感に浸りたいのだ。
それじゃあ、終盤の白ごはんを前にしてなにを思うかというと、それまでの充足の余韻と、あとすこしの辛抱の落差に人生の屈折の連続などを重ね合わせ、納得する時間を過ごすのだ。
こんなぼくをうちの作業所のスタッフKは、「あんたマゾやわぁ」と楽しそうに指をさす。
ぼくは、ちょっといい気持ちになる。こんなジョークが通じあう場所でありつづけたい。
最近、ぼく好みのクリームパンになかなかお目にかからなくなった。
どっしりとした生地と、これまたドンとした重みのあるたまごの味が伝わってくる「クリーム」パンだ。
ぼく好みのクリームパン、昔ながらのクリームパン、あぁ~クリームパン。
そんなクリームパンだとわかっていて食べるときには、じっと見つめる間がほしくなる。
その中身を想像し、ひと口めにたっぷりのクリームと出逢うか、生地をじっくり味わうことになるか、心を揺らめかせたいのだ。
そういえば、若いころに世間のうわさで、中国では透視などの研究が行われていると聞いたことがある。
人間には、そんな能力が秘められているのだろうか。興味は惹かれる。
一方で、ぼくが尊敬するミュージシャン友部正人さんは、「六月の雨の夜、チルチルミチルは」のなかでこううたっている。
「知らないことでまんまるなのに 知ると欠けてしまうものがある」と。
いまの世の中、多くの人が正しいことを求めすぎているような気がしてならない。
正しい側に立ってしまうと異なった価値観は、すべて否定され、攻撃の対象にされてしまう。
本当に、いつも正解はひとつだけなのだろうか?
さて、ぼく好みのクリームパンに戻る。
介助するヘルパーさんに割ってもらったり、外から感触を確かめてもらったりすると、それほど手間をかけなくても、クリームの詰まった部分とそうでないところのちがいはすぐにわかるだろう。
でも、ぼくはまるかぶりがしたい。最初のひと口にどの部分があたるか、ワクワクしたい。
こんなところで友部さんの名曲の一節をお借りするのは心苦しいけれど、やっぱり「知らないことでまんまる」でいたい。
それでは、どこを食べてもクリームいっぱいで、しかも、生地がどっしりとして、しっとりさも持ちあわせていればどうかというと、そんな代物に出逢ったことはない。
だから、想像の域は脱しないけれど、あまりうれしいイメージは湧いてこない。
どこか、すこしだけ物足りなさが恋しくなるだろう。
完璧では、何かがつまらない。伸びしろを予感させたり、思いもよらない変化を求めたりしたいのだろうか。
ぼくは、なんと贅沢な矛盾を語っているのだろう。
どんな終止符を打つか考えていると、右手の指先が小刻みに動いていることに気づいた。なにをまとめるでもなく、このままページを閉じる。