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書くに足りないこと
さっき、パソコンで文章を入力してもらっていたら、めずらしく真相を追及したくなる出来事があった。
ぼくはサポートしてくれている若いヘルパーさん(息子のような)に、「自分らしい【テースト】」と言ったつもりだった。ところが、うちの息子は「テイスト」と入力した。
さっそく、ツッコムと「ぼくは【テイスト】だと思うんですけど」とのこと。すっかりネットの魔力に毒されてきたぼくは、すばやく彼にググってもらった。
すると、どちらでもよさそうなことが書いてあった。
ところで、Windows10の予測候補では、「テースト」が上位にきていた。
おろかにも、ぼくは勝ち誇った気分になった。本当に自分で自分がイヤになる。
その後、障害のためにバタつく左手を脇にはさんでいた息子が急に笑い出す。
ぼくは、「ピン」ときた。さては、手首が乳首の周囲を小刻みに上下している微妙な動きを察知しているのだなと。
都合のよいことに、左手首より先だけはある程度の自由がきく。
即座に、手のひらを胸へむけ、キュンと軽く握ってやった。
二人に大爆笑がおとずれた。
うちの息子は、障害者の手足をめざすストイックさには欠ける。
だが、障害の有無に関わらないフラットな間柄については、響くものがあるようだ。
同世代の友人にも、幼いころは座敷牢で過ごしたというヤツがいた。
いまも、同情をふくめればムカッときたり、じんわりと堪える場面に出遭ったりする。
だから、ぼくたち自身も、まわりの人たちも、個性を強調したくなる。
だけど、だれにとっても個性はいちばん大切なものではないだろうか。
ぼくが生きているうちに、「障害」と個性や自立をむすびつけなくても、すべての人にその重みが伝わる世の中がくるのだろうか。
書くに足りないことを書くつもりだった。