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友部さんのこと2

  つたない言葉で
 その夜、ライブハウス「磔磔」の扉を開くと、もう唄ごえが届いてきました。一瞬、ライブの邪魔にならないかと気遣いましたが、すこししゃがれた唄ごえに引きこまれていたことを憶えています。

 ぼくが出逢った友部さんのはじまりの唄は「中道商店街」でした。
 養護学校のころ、ずっと心にかけてもらっていた若い先生がいました。
 彼女は、発言に対して行動がともなわないぼくを「評論家」と呼んで、叱咤激励してくれていました。
 だから、「中道商店街」に描かれている「彼」は、自分自身と対照的なモチーフであり、憧れに想えたのでした。

 それまで、友部さんの唄をぼくは一度も聴いたことがありませんでした。
 ただ、偶然に新聞の書評に載せられていた「生活が好きになった」というエッセイ集が気になって、鈴鹿山脈のふもとの小さな本屋さんに取り寄せてもらったことがありました。
 ほとんど内容は忘れてしまいましたが、「カレーライス」しか知らなかったエンケンさんのことが書かれてあって、興味を惹かれました。
 書き進めながら思い出したんですが、タイを旅行されたときの話もありました。どんな境遇の人でも、寺院に行けば食事ができたり、偏見の目で見られたりすることもないと記されていたと思います。
(しっかり調べないままに、古い記憶をたどりながら書いているので、正確ではないかもしれません)

 なぜ、友部さんのライブへ行くことになったかというと、それは親友の誘いでした。
 書こうとして思わず吹き出してしまったのですが、彼とのつながりを話しはじめると二~三日はたっぷりかかるほどのシンクロニシティがあって、ものすごい長文になり、肝心の友部さんのことにたどり着きそうにありません(noteでもちょこちょこ登場しているのですが)。
 一言でまとめます。
 加川良さんの「下宿屋」によって、ぼくたちは結ばれました。
 
 ぼくは、一九八八年に京都の亀岡の近くの施設へ帰ってきていました。
 唄のつながりは、とてもおそろしいものです(笑)。
 彼はもどってきた施設のすぐ近くの養護学校で働いていて、あっという間に意気投合してしまったわけです。
高田渡さんや伊藤たかおさんや南正人さんなどのライブをつぎつぎと聴きに行きました。
 
   そんなある日、面会にきた彼は、ぼくにこんなことを言ってライブに誘ってくれました。
 彼
 「友部正人って、知ってるかぁ~?」
 ぼく
 「唄は聴いたことないけどなぁ、エッセイは読んだことがあるねん」
 彼 
 「ぼくも『大阪へやってきた』しか聴いたことないんやけど、甲斐よしひろがなぁ、『拓郎が太陽なら、友部は月だ』って、音楽雑誌に書いてたんや」
 ぼく
 「ほんな、行ってみよかなぁ」
 
 こんな感じで、このあとの展開を知るはずもないぼくたちは、あの夜に、友部さんと友部さんの唄に出逢ったのでした(と書こうとして、力が入りすぎてる感じがしました。だから、〈出逢いました〉に変えたい気持ちでこのままいきます)。
 
 それほど明るくないライトに照らされて、友部さんは二時間あまり唄いつづけました。
 二~三曲、なにも話さずに唄ったかと思うと、急に「ありがとう」とつぶやいたり、「次は○○です」と曲名の紹介だけをしたりしながらの飾り気のないものでしたが、一つひとつの唄がとても切なく聴こえるのに、あったかい気持ちが潮の満ち引きみたいに届くようでした。
 
 休憩のときだったか、日常の一コマやライブスケジュールなどを載せた一枚もののファン向けの新聞の最後に「何人のお客さんのところでも唄いにいきます」と書いてありました。
 ぼくたちは「百人ぐらいやったらいけるよなぁ」と、うなずきあいました。

 突然、言い訳です。パソコンを入力するヘルパーさんの交代の時間が迫ってきてしまいました。
 余計な事ばかりを書いてしまって、友部さんの唄のことやはじめてのライブの感動を上手く文字にできませんでした。
 とにかく、ぼくにとって友部さんは大きい存在です。気持ちを込めて書きたいので、体調や精神的なことやヘルパーさんのシフトと相談しながらすこしづつ書いていきます。
 
 明日にでも、友部さんの専用マガジンを再び復活させるようにします。とりあえずこのへんで。

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