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三日前と今夜
部屋の白い壁を眺めていた。
もし、どんな願いでもかなえられるのなら、ぼくの最期の息が途絶えたとき、この壁に沁みこんでいきたい。
葬式にはカネがかかるし、しがらみで参列する人もいる。
できれば、懐かしんでもらえる一人ひとりの心の中で祈っていてほしいし、気の合った者同士で旨いものをつつきながら、思い出話の花を咲かせてくれれば、なおうれしい。
現実に帰れば、兄や姉が生きていてくれたら、身内だけで葬られたい。
なだらかな坂道を空き缶が加速しながらころがり落ちてゆく。
カンカラカンカンカンと、小キザミに乾いた音が響いている。
一車線ではあっても、かなり幅の広い道路なのに、なにも、誰も通らない。
落ちてゆく空き缶を凝視すると、濁った光を反射させている。
空は澄みきっていて、まともに太陽を見上げられない。
それでも、空き缶に反射する光にまぶしさはなかった。
三日前の夜、願望と、幻想とも心象風景ともつかないふたつの非現実的な感覚の中に、ぼくは身を委ねていた。
思いどおりにならない日が続いている。
距離を置いてつき合ってきた人に対しても、親友だと想い、大切にしてきたはずの人に対しても、大事な場面で真意を伝えられない。
性善説を信じているとか、フラットな関係にこだわっているとか、そんなことを口走ってきた自分が情けない。
十分ほど、黙ってモニターを見つめていた。
今夜は、枕もとで流れているオーディオが救いの手を差しのべてくれそうにない。いつもなら、シャッフルでセットしていても、シンクロニシティの力が働いて、自分自身を見つめ直させたり、気分転換をさせたりすることにピッタリの唄が聴こえてくるけれど。
「書くこと」には心を揺り起こす力があるのかもしれない。
どん底の文章を読み返しているだけで、すこしづつ気持ちの整理がついてきて、友部さんや良さんの唄が聴こえてこなくても、もうひとりのぼくが苦笑いしはじめた。
「生きているかぎりは、あらゆる自分とつき合っていかなあかん」と。
「揺り起こす」という表現と矛盾しているかもしれないけれど、自分自身の情けなさに愛想をつかしたり、個人や社会におびえたりしているときに現れるもうひとりのぼくは、めったに柔和な笑顔を浮かべることはない。まして励ますことはしない。
どちらかといえば、ちょっと上から目線で嘲笑するか、苦笑している。
加川良さんの「下宿屋」という唄に出逢ってから、ことあるごとに現れるようになったもうひとりのぼくは、はじめは穏やかな表情をしていた。
嘲笑や苦笑いをするようになったのは、いつごろからだろうか。
最近の人たちは、たったひとつの真実を知ろうとする。
ぼくは世の中の流れに逆行して、「知らないこと」から生まれる奥行きを大切にしたいと思う。
若い人たちと接していて感じる自分自身に対してのぎこちなさは、そのあたりからきているものなのかもしれない。
大小の割りきれなさを携えながら、祖母やおふくろから連なるぼくを支えてくれた人たちとの喜怒哀楽と、毎日のちっぽけなデキゴトから世の中に対しての想いまでをここに書き残していこうと、あらためて思った。