「やりたいことがない専業主婦」から「これだけやりたい経営者」になるまでの道のり
何がやりたいことか全くわかりませんでした。
やりたいと思って試してみてもすぐ飽きる。何をしても続かない人でもありました。
私は23歳で結婚し、25歳で娘を出産。出産後は子供のそばで成長を見たいと思い、専業主婦を選択しました。
その後、11年間の結婚生活を経て、35歳で離婚することになりました。
そんな私が生涯を通じてこれだけを仕事としてやりたい!と見つけたのは45歳です。
つまり、経営者になるまでは専業主婦を辞めてから10年かかったのですが、10年間経営者になることを目指していたのではなく、10年間封印しました。
この時は経営者になることよりももっと優先順位の高いことがありました。
それは、翌月から毎月収入があること。
この一択でした。
いきなり経営をして投資や出費をして、売上をすぐに上げるだけの資金やノウハウもありませんでした。
とにかく、娘と二人で生活するだけの収入を得るには、どこかの企業に就職することが一番良いと思いました。
しかし、その就職すら出来ない立場であると知り、愕然としました。
「あなたにご紹介できる仕事はありません」
大手派遣会社へ登録に行った時のこと。若い女性スタッフに言われた一言でした。
資格もスキルもなく10年以上のブランクのある35歳のあなたには仕事がないですよ、と言われた気分でした。10年子育てに専念していたら、就職ができなくなるなんて全く予想していませんでした。
知識やスキルのない私には派遣社員がダメなら正社員はもっと遠い夢。
アルバイトを見つけるしかないのか。
そう思っていた矢先に、夫が自分の仕事関係者に聞いて回ってくれて求人を見つけてきてくれました。
「◯◯会社のマーケティング部門でスタッフを募集するそうだから、公表する前に声をかけてくれたので、応募してみたら?」と言われました。
誰もが知る有名な超大手消費財メーカーです。しかも後にわかったことですが、その会社のマーケティング部門はとても有名かつ花形で、入社したくてもなかなか入社できないそうです。
それなのに私は「1時間も通勤できるか心配。迷惑かけたくないから」と言って、その話を断ってしまいました。
どうしても、そこで働くイメージが湧きませんでした。
選べる立場では無いのに。。。
夫にも「働く気あるの?」と言われる始末。
働く気はあるのですが、本当に通勤が一番不安でした。
それでも夫は再度、別の会社を紹介してくれました。
さすがに面接もせず2回も断ることはできないし、通勤時間も片道40分だったので、何とか通えそうだと思い、面接に行きました。面接者はいきなり社長と常務でした。
夫から事情を聞いていた社長は、業務スキルや仕事の話は一切せず、
「母と子で生活するためには毎月いくら必要ですか?」とか「自分も娘がいるから、もし私があなたと同じ状況になったら・・・」と言いながら、声を詰まらせ涙を流してくれました。とても驚きました。
話せば話すほど裏表のない社長だと思い、ここに入社したいと思いました。
ありがたいことに内定をいただき、しかも諦めていた正社員での採用でした。
配属先も3部門のうち、子供もいるのでお客様担当になるよりは、一番融通の効きそうな社内業務が良いのではないかとご配慮いただき、コーポレート本部の総務人事担当になりました。
紹介してくれた夫にも感謝ですし、採用してくれた社長にも感謝でした。
その恩に報いたいという想いと、何があっても辞められないとのプレッシャーが入り混じっていました。
「やりたい」というよりも「やるしかない」との気持ちでした。
というわけで、当時の私は娘が社会人になるまで責任持って育てる、ということ以外、なんのやりたいこともありませんでした。
自分のやりたいことなんて考えてはいけないとすら思っていました。
社長からは「社会復帰のリハビリだと思ってのんびり慣らしていけばいいよ」と言ってもらいました。
今思うとあり得ない待遇だと思います。当時の私は働けることの喜びと、何のスキルもない私を正社員として迎え入れてくれた会社に恩返しがしたい思いと、頭を下げてくれた夫に報いるようにとの思いで働きました。
これで娘との生活もできる。
しかし、入社後、社員の人たちが話している会話が全くわかリませんでした。
できる仕事といえば来客のお茶出しくらいでした。
仕事は一日中お茶出し
そんな日もありました。
それでもとにかく一生懸命やりました。毎日必死でした。
パワーポイントも、PDCAも知らず、ネットで調べて学ぶ日々。
10年間の社会ブランクは本当に浦島太郎のような状態でした。
小学校低学年の娘は、学校から帰宅し「おかえり」と迎えてもらっていた生活から、一人でお留守番をする毎日になり、大きな環境変化となりました。
私も新しい生活、仕事、人間関係など慣れない環境の中、まだ終わらぬ仕事を持ち帰り、猛ダッシュで夕食の買い物をして帰宅。すぐに簡単な夕食を作り娘と食事をしてお風呂に入る。家事をして残りの仕事をして寝る。
目を閉じた瞬間に、目覚ましが鳴っていると感じるほどすぐに朝が来る。
そんな生活を2人で長い間しました。
年々、仕事の範囲は広がり、コーポレート部門から正式に人事部ができました。
人事部の上司は社長で、部員は私一人。人事部の立ち上げ経験を全て担うことになりました。
そして、本格的に新卒・中途採用を始めました。
しかし、担当した初年度にいきなり難題がやってきました。
人の人生を変えてしまうほどの大失敗
大変なミスをしました。
新卒採用で7人採用し、6人がすぐ辞めてしまったのです。
この辺りの失敗談はまた改めて書きますが、これを機に採用をもっと学ばなければ、人の人生も狂わせてしまうし、会社にも大きな損失を出してしまうとようやく危機感を持ち、意識が一気に変わりました。
社外の専門家を紹介してもらい、採用のノウハウを学び、採用と名のつく本は全て読み、マーケティングを学び、外部セミナーに参加しながら採用戦略を作り直しました。
その結果、求める人材が集まり、内定者フォローが不要なほど入りたがってくれる学生が入社してくれるようになり、今でも在籍して幹部として活躍してくれている人たちをみると、やはり仕事はどこまで細部に突き詰められるかだと学びました。
その頃から、せっかく人事経験が積めるのだから、外(他社)でも通用する人事を目指そうと思い始めました。
ここでも「やりたい」というよりも、「せっかくやるなら」という気持ちでした。
そこからはどの仕事をするにも、これは外でも通用するか?いや、まだまだだな。と自問自答しながら学んで行きました。
毎日は充実していたものの、入社してからずっと「この私にこの仕事ができるのかな?」と思うような仕事に必死にチャレンジし、気づくと何とかできるようになっている、を毎年繰り返す中で、日々の仕事の量と難易度と責任は増え、人事部のメンバーも増え、責任者としてのプレッシャーも大きくなって行きました。
ある日突然、心が折れる
入社して7年が経過していた頃、それはある日突然やってきました。
年度初めの社員合宿での出来事。
外部講師を招き、全社員参加の研修がありました。
研修項目の一つとして、会社の不満を出すワークを全社員がやることになりました。
普段から社員たちに相談されていた内容と同じような不満がたくさん出ました。
気持ちは重くなっていましたが、この程度の不満が出ることは想定内でした。
とはいえ、負のエネルギーにどっぷり浸かったせいか、その後の昼食もあまり食欲がなく、同様に食欲がない社員も数人いました。
そして午後の研修が始まり、本日最後の項目が始まったと同時に、
私は心が折れてしまいました。ずっと張り詰めていた糸が切れた感覚でした。
それは、会社の未来についてみんながテーマを設定・発表し、テーマに賛同した者同士が集まって対話をするというものでした。
その時のみんなの表情がとても楽しそうで、生き生きしていたのです。
昼前に鬼の形相で不満を吐き出していた人たちと同一人物には全く見えませんでした。
見方を変えれば、前向きになってくれて良かった、めでたしめでたし。と言ったところでしょう。
しかし、私にはとても異様な光景に見えました。
さっきまであんなに文句言っていた人たちが、前向きに会社の未来について楽しそうに話をしている。
この人たちは一体何者なんだろうか。
自分で選んで入った会社のはずなのに、文句ばかり言っていたけど、今では何事もなかったように、楽しそうに会社の未来を語っている。
今までこの社員たちの相談に乗っていたけれど、別に私がいてもいなくても関係なく、人ってネガティブになったりポジティブになったりするのだ。
では今まで私が介入して時間と労力を費やしていたことは一体何のために誰の役に立っていたのだろうか。
娘を夜遅くまで一人で留守番させてまで他人の相談に乗っていた自分が馬鹿らしくなってしまったのです。私なんて別に必要ない存在だ。と。
心が折れてしまいました。
そこから一気に無気力になってしまいました。
何を目指して仕事をしていいのか全くわからなくなってしまったのです。
放心状態の私に気づいた研修講師は
「今まであなたの働きぶりは本当にGOOD JOBでしたね。」と親指を立て、私に向けてこう言いました。
「組織開発は大きな岩に爪楊枝を刺すようなもので簡単に変化は起こらないですから。」と。
気持ちを理解してくれる人がいて、少し楽になりました。
しかし、この日を境に一ヶ月半、ずっと何もする気力が湧きませんでした。
無気力症候群です。会社を辞めなければならないのか。でもまだ辞められない。
そんなことをぼんやり考える日々でした。
そして後日、この講師のコーチングを受けました。
今までの不満を全て吐き出させてもらい、それを講師がメモし続け、これ以上出ないところでペンを止めた時は、すでにA 4ノート3ページ分の不満が書かれていました。
こんなに溜まっていたのかと自分でも驚くほどでした。ずっと全速力で走り続けた結果が3ページ分の不満だったなんて、愕然としました。
そしてさらに驚くことが起こりました。
不満を出し切った後、講師から質問がありました。
「もしもこれらの出来事の片棒をあなたが担いでいるとしたら?」
と。
恥ずかしながら全く持っていない視点でした。
こう言われた瞬間、外に向けていた矢が自分に刺さりました。
私は会社、社員のためと思い込みながら走り続けていたけれど、そのもっと奥深い底では自分が評価されたり、周囲から認めてもらうための行動をしていたことに気づきました。
そんな自分が他責ばかり言って、とても恥ずかしくなりました。
すると、さらに不思議な感覚が起こり、3ページ分の周りへの不満がスッと全て消えて行きました。
ここから自己探求の旅が始まり、自分は一体何がしたいのだろうか?と考えるようになりました。
私は何者で、何を成す人なのだろう?
この世に私は一人だけであり、私にだけできる役目があるから生まれたのだろう。それはなんだろうか。と考えました。
ここから外部セミナーに参加して自己認知を深めていきました。
これが今経営している自分のビジネスに繋がる入り口でした。
心が折れたあの日から、私の心の声は次第に大きくなっていきました。
その声に従うことにして、4年後、退職をしました。
入社して11年。娘は大学2年生になっていました。
娘が社会人になるまでは勤めようと思っていたけれど、少し早まりました。
結果的にはずっと一緒にいれなかった時間を取り戻す時間になったので、ベストタイミングだったと思います。
そして、私の心の声は、
本来の自分として生きる
と、宣言しました。
もう人からの評価のために自分を犠牲にし、うまくいかないと他責にする人生を終えて、本当の自分とはどんな自分なのか、本当の自分で生きたら何が起こるのか。
試してみたくなりました。
そして、本来の自分で生きるスタートラインに立った時、
本来の自分で生きたいと思う人を支援し、同じ思いを持った人たちと繋がりたいと思いました。
ここから約5年間、自己探求の旅が始まりました。
そして今ここですが、「誰もが唯一無二の個性を活かして仕事や人生を創る」ことを支援する仕事をしています。これだけがやりたくて経営しています。
人はいつからでも、どこからでも、なりたい自分になれるし、生きたい生き方ができると思っています。
このあたりのお話はまた次回以降に書きたいと思いますので、よかったらまた読みにきてください。
ありがとうございました。
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