埋め立てられた川と橋があった場所(入船川)
今年の8月に記事を書いた桜川(八丁堀)と今後記事にする予定の築地川の間に、かつて入船川という掘割がありました。この掘割ができたのは明治元年(1868年)にいまの新富町に新島原遊郭が開設された時。築地に外国人居留地が開かれた時に外国人の利用をあてこんで作られたのが新島原遊郭で、入船川は当初遊郭を巡る郭堀(くるわぼり)として開削されたのだそうです。とはいえこの遊郭はあてが外れて集客を得られず、明治3年に廃止が決定し明治4年に新吉原に移されます。入船川はその後明治15年に拡幅されて、東側が新富河岸となります。
大正13年、関東大震災の帝都復興事業により新大橋通りを建設するために埋立てられました。
資料を見ながら作成した地図です。赤い破線で囲んだのが新島原遊郭で、青が入船川があった場所です。最近の地図をベースにしたので築地川・桜川が全部陸地だから唐突に川が始まって終わっているように見えますが、以前は北に桜川が、南に築地川があり、両方の川と繋がっていました。
ここには5つの橋が架けられていたと書かれているものもあるのですが、ウィキペディアの情報では橋は4つでした。Webを検索しまくってみたところ、船見橋の北に名前のない橋が存在したように思います。そして資料・文献により一番桜川寄りの橋は「新船見橋」と「北船見橋」の両方の名称が存在するのでした。東京都立図書館のアーカイブから確認できる地図ではどちらも「新船見橋」でしたのでこちらを採用することにします。
桜川から近いほうから南下します。
新船見橋
桜川との合流点の近くに架けられていました。今の場所だとおそらくこの辺ではないかと思われます。この裏手には桜川の埋め立て地跡に建てられた京橋図書館があります。
ここは新大橋通りをひとつ西側に入った補助線です。名前のない橋があったようだと書きましたが、新大橋通りを交差する新京橋~南高橋に至る道路が通っているこのへんの近くだったんじゃないかと思います。ここで少し道筋というか川筋が曲がってるのがわかるでしょうか。
入船川の川筋はこの道路ではなく、道路の左側のビルが建っている位置になります。そしてその左側(新大橋通りとの境目)に新富河岸がありました。
船見橋
船見橋があったのは多分この辺だと思います。入船川が明治元年に開削され昭和の目前に埋立てられた川なので、とにかく川の跡らしきものがありません。川があったと言われなければ(言われても)全くわからない。この辺が遊郭だったことも、もと川巡りをするまではわかりませんでした。この川は通称「お歯黒どぶ」とも呼ばれる郭堀だったそうです。その遊郭も3年後には廃止、その後新富町は花街に姿を変えます。
新富橋
新富橋が架けられていたのはこの辺と思います。新富橋と南新富橋の間(この一本西側の道)に見出し画像で載せた新富稲荷神社があります。
南新富橋
南新富橋が架けられていたのは、もと築地川との合流点の近く。現在は首都高速都心環状線の新富町出口付近です。
今回の記事を書く中で、5つ橋があるって書いてあるのに4つの名前しか出てこなかったことに妙に熱を入れて調べてしまいました。結果、確実なものが出てこなかったので諦めましたが、1つだけちょっと気になる記録が残っていました。「東京震災録」という大正15年に東京市が発行したもので、これは震災時の応急措置として市が活動した記録のようなんですが、「入船川筋ノ北船見橋伊藤橋南新富橋新富橋入船橋ノ五橋何レモ消失落下シタル為」と書かれていたのです。
橋が続けて書かれているので分けると「北船見橋」「伊藤橋」「南新富橋」「新富橋」「入船橋」の5橋になっています。え、入船橋?とか、伊藤橋ってなんだ?とか、ここでは北船見橋なのかとか、ツッコミどころ満載でした。この記録にだけ「伊藤橋」というのが「船見橋」の代わりに出てきます。そして入船橋・・・この橋は築地川の橋ならわかりますが入船川に架けられていたのでしょうか。これはあくまで活動の記録なので、もしかすると担当した人が勘違いした可能性があるかも知れないと思いました。
この記事には資料そのまま「新大橋通りの建設のため埋立てられた」と書いてしまいましたが、この当時は幹線道路の整備が始まっていたと思われるので、水路として利用する意味が無くなっていた気がします。改めて新大橋通りがいつ整備されたのかを調べようとしたら、すぐに出てきませんでした。昭和通りのように、震災復興で整備されたとかはっきりと書かれていない通りなんですよね。(「東京都道・千葉県道50号東京市川線」という名前で誰がピンとくるのでしょう。)なので深追いはしません。何かの折りにわかったら情報を追加したいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?