見出し画像

昨日は母の日でした。すっかり忘れていたのですが、今朝、息子からメッセージがあり思い出した次第です。

実母が生きていた頃は私の「母の日」全盛期だった。両親は富山、私は大阪か横浜と言う生活が長く続いた。社会人になってからだと思うが、母の日と父の日のプレゼント、両親の誕生日のプレゼントを欠かさなかった。儀礼的かもしれなかったけど、そんなプレゼント選びは楽しかった。

ありがとう、って息子がいうのだと思っていたんだが、、、

今、私は北軽井沢・大学村という環境保護別荘地域にいる。ひとりになっていろんなことを考えたかった。

・日本人はなかなかひとりになることができない。
・だから、自分のことを真剣に考える時間と場所を得られないから、いろんなものに流される
・気がついたときには人生を変える勇気がなくなる年齢になっている。
・逆に言えば、一人で考える時間を作れば、人生の見直しをすることができる。

これは私の持論であり、自分で実験しながら、融通の効かない大人になってからでも、自分から動くことができる仕組み・仕掛けを作れないかと今、悪戦苦闘している。そして、先ほどの、息子からの「母の日おめでとう」と言う、逆説的なメッセージで驚いた。

ありがとう、って言うのはあなたでしょ?

と、一瞬思って、即思い直した。その思いこそが自分が常識に囚われているのだと。そう思えた途端に、脳の中の何かが、蜘蛛の子を散らしたように弾けた。そして、母が脳梗塞で倒れた後、自宅の片付けをしながら、タンスや物置から出てきた品々を思い出した。それは私が両親に贈った様々なプレゼントだった。揃いの湯飲み茶碗、ワイングラス、傘、服、、、、その時に使って欲しかったものを両親は(いや、母か?)残していたのだ。大切に大切に。

今日はもしかしたら、生まれて初めて、母に、親になれたことを本当に嬉しく思った日かもしれない。父や母の気持ちになれた日かもしれない。息子のスットコドッコイなメッセージには感謝しかない。彼は父の日にも、夫に、「お父さん、父の日、おめでとう」のメッセージを送ってくれるだろうか。

みなさんには生活でもない、旅でもない、自分を見つめる時間を作ってみてほしい。これは一昨年のデンマーク・フォルケホイスコーレの経験から来たものかもしれない。

今の私だから得られたチャンスであることは間違いないが、これは簡単に伝授できる。緑いっぱいの中で、雨の日も、晴れの日も、自分を考えてみる時間を持つ。忙しくてそんなことできないよ、と言う人こそやってみてほしい。

新しい自分として生きることは、かなりステキなことであると保証しますよ。自分のファンになれる、自分で生きるために。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?