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原風景はりんごの花摘み

「お母さん、自然が好きなんだね」と、私の描いた風景構成画を見て娘が言いました。自然が好き?なるほど、この絵から、そう見えるのか。。。緑は好きだけど、街も好きなんだけどな。それはさておき、風景構成画のワークを振り返ってみます。

風景構成画報は、画用紙に川、山、田、道、家、木・・・・と決まったものを順に描き入れ彩色し、一つの風景画を作っていきます。すると、その人のその時の心の風景があらわれてくる。この風景について、質問したり、イメージを膨らませて話をしたりという、風景構成画のワークをしたのはつい先日のことです。東京のアートセラピー仲間と2人、遠方にありながらzoomでたっぷりワークできるというのは、コロナ以前には考えられなかったことで、本当にありがたいです。

さて、この風景画の左上に馬がいますね。PC画面越しにこの絵を見てくれたワークの相手は、馬が気になったようで、「絵の中の馬になって」みてはどうか、という提案をしてくれました。

アートセラピーやドリーム・ワークでは、絵の中のあるものや、夢に出てきたものや人に「なってみる」ことがあります。

いきなり「馬になってみて」と言われても戸惑いそうですが、意外と「なれる」ものなんです。子供のころ、ごっこ遊びをしましたね。お店やさんごっこ、病院ごっこ。お店やさんの役や、お客さんの役、看護師さんの役、患者さんの役・・・そんな感覚です。馬に「なってみる」とは、馬の目になって、馬の感覚で世界を見たり感じたりするのです。

描いた時のわたしは、野や山を力強く駆ける存在として馬を捉えていました。ところが、「なってみる」と、この馬は力強く走ってはいませんでした。立ち上がったばかりの仔馬のように、今はまだ走れない。今は足元の草を踏んで、その感触、草の良いにおいと足の感覚を確かめているよう。これは、わたしの中の馬のような力強い存在が、今はまだ走り出す段階ではなくて、「地固め」をしているということなのでしょう。(地固めってとてもいい表現。ワークの相手が言ってくれた言葉です。)

一人の人のこころの中に、色々な側面があるとします。絵を描いた時のわたし(=仮に表面的意識のわたしとする)は、馬がまだ走り出せず、準備の段階であることには気づいていません。でも、「なってみる」ことにより、こころの中の別の側面に触れることができ、こころの奥底がどんな状況なのか、感じ取ることができるのです。このことで、わたしの表面的意識は、こころの奥底にいる自分の一側面の言い分を聞いて、それを置き去りにせずやっていこうとするんです。こういった奥底の自分との対話には、ほんとうに助けられています。表面的意識は、何かと先を急いで、奥底の意識を置いていこうとするんですから。。。

もう一つ大切な気づき。ワークの中で「草のにおい」で思い出すことは何かと聞かれて、思い起こされたのは、りんごの花摘みのことでした。わたしの祖父母はりんご農家で、子どもの頃、花摘み(摘花?)の頃に母が手伝いに行ったのか、遊びに行ったのか、とにかくりんごの木の下にござを敷いて、妹とわたしは遊んだり、おやつを食べたりしたことがあったなぁ、と。りんごの白い花の季節と言えば、緑が一斉に鮮やかになる5月頃でしょうか。あまり色のない長い冬枯れの季節が終わり、だんだんに草木が萌え、花が咲き、葉の勢いが増し、世界の色が鮮やかになっていくのは、ほんとうにこころが踊ります。

冒頭で、「自然も好きだけど、街も好き」と書きました。だから、お隣の安曇野に行って緑を浴びることも、店の灯りや人の気配を感じに街に歩いて行くことも両方できる、この場所が好きで暮らしていると思うのです。

ただ、どうやら、わたしのこころの基底には、「りんごの花摘み」のような緑豊かな原風景があるらしいのです。そして、この、祖父母にまつわるりんご畑の原風景、りんごの花摘みの原体験が、馬が走り出すための肝となっているらしいと思い至りました。去年他界した祖母からは、普段意識に上ってこなくても、実は色々なものを受け継いでいるのではないだろうか。そして、天から祖母が応援してくれている気がして、嬉しい気持ちにもなりました。

ワークは、一人でもできるけれど、一人ではここまで深い気づきは得られないと思います。一緒に絵を描いて、そこから対話をすることで、それぞれの物語が紡がれていくかのようです。自分の物語を聴いてもらう。そして、相手の物語も聴かせてもらう。それは物語を読んで主人公にこころを寄せるかのように、他者を想像する、思いを寄せること。そういったやりとりの、ゆったりとした時間がほんとうにありがたいし、糧となっていると思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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