シン・村上春樹論(仮) #2 | 「壁抜け」的コミットメントの可能性と限界
はじめに
先月に引き続き、村上春樹について書いていきたい。僕が10年以上前に書いた『リトル・ピープルの時代』の続編のようなものだと思ってもらってもいい。これからしばらく、月末にまとまった量を更新していくつもりだ。今、購読開始すると前回分から読めるようにしておくので、ぜひ購読を検討して欲しい。
※前回の記事はこちら
「精神的な囲い込み」にあらがう
1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』から村上春樹は本格的に「コミットメント」へと舵を切ることになる。
村上が小説を書き始めたころ、マルクス主義の代表するビッグ・ブラザーは徐々に壊死を初めていた。このとき大事なのはこの壊死をはじめた古い悪からデタッチメントすることだった。しかし、このとき村上が目にしたのは、まったく新しいタイプの悪、つまりリトル・ピープルの台頭だった。この新しい悪に村上は対決する必要を感じたのだ。マルクス主義の代表するビッグ・ブラザーの退潮の結果として明らかになったのは「多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない」のだという現実であり、その新しい世界に出現し始めたのがそのような多くの人々の弱さの現れ、新しい世界の仕組みに対するアレルギー反応として噴出するリトル・ピープルーーオウム真理教のような悪ーーだった。それはかつて彼が「羊」に象徴させたものが、具体的なかたちを伴って現れ始めたことを意味した。
これは村上春樹の2008年の新聞紙上での発言だ。村上が当時執筆中であったと思われる『1Q84』にはオウム真理教をモデルにした「さきがけ」という新興宗教の教団が登場し、「リトル・ピープル」は彼らが信奉する超自然的な存在として設定されている。1995年以前の村上春樹の想定していた現代における「悪」は新しい人間疎外(歴史の喪失)をもたらす高度に発達した資本主義のシステムのひずみとして描かれた。マルクス主義の敗北は、一つの社会思想に基づいた運動の失敗ではなくイデオロギーを用いて人間の生を歴史によって意味づけるという回路そのものの破綻だった。歴史が個人の生を意味づけない新しい世界をどう生きるのか。それが、1979年のデビューから1995年までの村上春樹の主題だった。そしてその創作の中心にあったのがデタッチメントという概念だった。マルクス主義の象徴するイデオロギーからも、資本主義の肥大のもたらす時代の加速からも「デタッチメント」を維持すること。そのためにハードボイルド的に自己完結し、その孤独の空虚さに耐えること。そうすることで、「責任を取る」こと。それが、『ノルウェイの森』で直子(=古い世界)を失い、みどり(=新しい世界)に「あなた、今どこにいるの?」という問いかけに対する、より深いレベルでの答えだった。
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