☆号外特集③☆ 宇野常寛 NewsX vol.2 ゲスト:福嶋亮大「“辺境”としての日本を考える」
新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第3夜は、宇野常寛 NewsX vol.2 出演時のゲストトーク。
現実社会との緊張のなかに「公共化した怒り」としての文学の再生を主張する福嶋さんの批判的思考は、新著での戦後サブカルチャーをめぐる読み解きにも一貫しています。
アメリカと中国の狭間で閉塞するばかりの日本の現状下、それでも〈文学〉と〈都市〉を再設定していくための道筋とは?
(構成:藪和馬)
NewsX vol.2
「“辺境”としての日本を考える」
2018年9月11日放送
ゲスト:福嶋亮大(文芸評論家)
アシスタント:加藤るみ(タレント)
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宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。
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〈辺境〉という視点から見えてくるもの
加藤 火曜NewsX、本日のゲストは文芸批評家、福嶋亮太さんです。まず宇野さんから福嶋さんについて、簡単なご紹介をお願いできますか?
宇野 10年ぐらい一緒に仕事をしている僕の親しい友人であり仕事仲間なんですが、立教大学の中国文学者なんですよ。ただ中国の研究だけじゃなくて、現代日本の文学に対する批評だったり、ポップカルチャーの批評だったり。いろんなジャンルに関して発言されている方ですね。
加藤 今日のトークのテーマは「辺境としての日本を考える」ですが、これは?
宇野 「辺境」というキーワードは、まさに福嶋さんからもらったものなんですが、今の日本は自意識過剰になっていると思うんですね。片方では愛国ポルノと言われているような「日本はこんなにすごいんだ」もしくは「すごかったんだ」、「日本人は他の民族に比べて優れているんだ」と。特に取り柄もなく、自分が日本人であること以外に誇るものがないような人が、そういう本やメッセージに癒されていると。もう片方では「日本は失われた30年によって二流国に転落してしまったんだ」と。これは事実なんだけど、とにかく日本は遅れているから、シリコンバレーや欧米を見習いなさいということで、ひたすら日本を自虐的に捉えることを一生懸命言う人も増えている。これはコインの裏表だと思っているんだよね。どっちも日本という国が世界中から見られ気にされているという前提で思考していると思う。でも、残念ながら、そんなことはもうないよ。政治的にも経済的にも、日本は存在感そのものがなくなっているわけね。みんな日本のことを中心だと思っているけれど、もう日本は世界の辺境であると僕は思うし。歴史的に見ても、ずっと辺境だったと思うんだよ。これは、まさに福嶋さんが最近の新著でおっしゃっていたことなんだけど、近代以前の中国文化圏は辺境なわけね。日本は東のはずれなんだよ。なんだかんだで漢字とか使っているしね。
近代以降は世界の中心はアメリカやヨーロッパであって、やっぱりアジアは辺境なんだよね。日本は辺境の中で近代化にたまたま成功しただけ。でも、辺境であることは別に悪いことじゃなくて、世界の片隅にあるからこそ見えるものはいっぱいあるし、できることもいっぱいあるわけだから、もう一回、辺境としての日本を考え直してみたいと思っていて。それで僕に「辺境」というキーワードを与えてくれた福嶋さんをお呼びしたわけです。
今の〈文壇〉の閉塞的状況を考える
加藤 このテーマを語るために三つのキーワードを用意しました。まず一つ目が「文学」。なぜ文学なんでしょうか?
宇野 ちょうど半月ぐらい前に福嶋さんが「REALKYOTO」というウェブマガジンにセンセーショナルな文章を発表されたんですよ。それはまさに日本の文壇、つまり文学業界ですね。作家とか文芸評論家とか文学者の寄り合い所帯ですね。ひとつの村社会みたいなものがあるんだけど、そこの問題を告発した内容なんですよ。具体的には6月に発覚した早稲田大学のセクハラ問題。ある有名な評論家兼大学教授が女子大生にセクハラをするんだけど、それを大学ぐるみで揉み消そうとしたということが今大問題になっているわけなんですよね。もうひとつは芥川賞の候補作にもなった『美しい顔』という小説があって、あるノンフィクションからの丸パクりの箇所があるということで、これも大問題になった。この二つの問題は一見、週刊誌的なスキャンダルネタなんだけど。でも、実はそこのことを告発したいわけじゃなくて、そのことを話の枕にはしているんだけど、そうじゃなくて、なんでもかんでもコネクションというか、特定の人間関係で全部決定されてしまうような日本の今の文学業界が問題だと言っているわけ。早稲田大学の問題でいうと、なんでこんなことが可能になるのかというと、早稲田大学の文化構想学部の文芸・ジャーナリズム論系というある学科が、ある文壇のグループの植民地というか、そこに占領されちゃって私物化されているのね。だから、そこのボスみたいな教員さんがセクハラをしても、大学ぐるみでの揉み消しが可能になっちゃっているわけ。これ酷い話でしょ?
加藤 酷いですね。
宇野 『美しい顔』の問題というのも、村社会の中である作家、彼ないし彼女を次のスターにするということが決まっちゃうと、誰もその作品も批判しちゃいけない空気になるわけ。なので、結構アラの多い作品であることは、実はあちこちで言われていたんだけど、すごく大切に甘やかしてまって、このような問題が起きてしまっている。
福嶋さんはそういったスキャンダルを追求したいんじゃなくて、そういった日本の文学業界の閉鎖的な体質を告発しているんだと思うんですよね。そのことは文学という狭い業界だけの問題じゃなくて、今の日本全体を象徴してしまっているんじゃないかと思って、このテーマを選びました。
福嶋 非常に的確にまとめていただいて、ありがとうございます。
まず文壇とは何かというところから整理していくと、文学とは何であり、社会的にどういう機能を帯びて、どういう役割を果たし得るかといった問いを、実作や翻訳や評論や座談会を介して議論していく、本来はそういう場なんですね。そもそも文学は一つの答えが出るわけではないので、複数の答えがあり得る。それを多事争論でワイワイガヤガヤやりながら鍛え上げていくこと。一言で言うと、そういう「大きなコミュニケーション」を保つための場が文壇です。そのコミュニケーションを外部の新聞の文芸時評がチェックし、一般読者にもわかるようなかたちで広げていくというのが、本来あるべき姿なんですよね。よくライトノベルと純文学のどこが違うんですか? という話があるんですが、それは質が違うというよりも、大きなコミュニケーションを担ってきたかどうかという、その歴史が違うわけです。純文学はそこを担ってきたことになっているからこそ、公益性があると見なされるわけです。
しかし、今起こっていることは、そういう豊かなコミュニケーションを育てるというよりは、宇野さんがおっしゃってくださったとおり、文壇そのものが一種のプロパガンダ装置みたいになっているわけですね。それまで文学が積み重ねてきた価値基準や評価基準があるはずなのに、それは最近では全部どこかにいってしまって、新人賞の選考委員や新聞時評の人たちも、ポッと出てきた新人の作品を熱烈な調子でただ褒めるだけ。これでは本来文学が担ってきたものを育てることはできない。ですから、結局ここにはエスタブリッシュメントの腐敗や堕落という問題があるわけです。これは今の日本社会で起こっている問題そのものです。大学であれ、文科省であれ、財務省であれ、本来は重大な社会的責任を果たすべきエスタブリッシュメントこそが根本的に腐敗していて、文壇もその一部になってしまっている。だから、そこにショックを与えるために僕はわざと強い調子で内部告発することにしたんです。
宇野 でも、その福嶋さんの告発に対する文学関係者の反応は、本当に中身がなくて。福嶋さんは僕の2〜3歳下ぐらいですが、この世界は30代はまだ若手なので、30歳そこそこのやつが俺たちの業界に文句をつけるとは何事か、ということしか言えないのね。そんなおじいちゃんたちのご機嫌をとるために、駆け出しの若手が「福嶋、許さん!」と小石を投げて点数を稼ごうとする。本当に醜いというか、終わっている業界なわけ。これは本当に頭が痛い話で。そもそも文学はなんで明治以降、特権的な位置を権威を持って日本の文化の中で位置づけられていたかというと、なんとか日本を近代化しようと。西洋近代的な成熟した個を、日本ならではやり方で繰り広げていこうという思想運動だったわけ。明治以降の近代文学というものはね。だからこそ、日本では村社会で前近代的なコネで全てが決まってしまう、本当に終わっている世界なんだけど。文学について考えることで、自立した個でありえるということを一生懸命やろうとしていた業界なのに。ボクシング業界とか体操業界とか、今いろいろと問題になっているじゃない? ああいった連中を日本の文学者たちは軽蔑してきたはずなのに、彼ら自身がすべての価値基準を人間関係で決める、言葉の最悪の意味でのコネ社会になってしまったという。それが本当に悲しいよね。
福嶋 そのとおりです。まさに近代的な個を育てるために近代文学というものがあったわけですよね。たとえば社会的な虚偽とか不正があった場合、たとえリスクを負ったとしても、それをちゃんと告発できるような主体を育てていくというのは、本当は文学がやらねばならないことなんですよ。にもかかわらず、今回セクハラ問題があり、それを組織的に揉み消したことになっているわけです。具体的にはどういうことが起きたのかはわからないけれども、少なくともこれだけ大々的に報道されたわけだから、言われた側はきちんとした応答責任がありますよ。にもかかわらず、むしろ隠蔽体質を強化するかたちで文学が機能してしまったという問題がある。
こういう機会に文学とジャーナリズムの問題もちゃんと整理して考えるべきです。今ではそれらは別ものと捉えられているけども、文学史を紐解けば、そもそも近代文学とジャーナリズムは非常に近いところにあった。作家でいえばエミール・ゾラでもジョナサン・スウィフトでも、隠蔽された「目に見えないもの」をジャーナリスティックに暴いていくことによって、文学をも育てていくという回路がかつてあった。しかし、今はそういう回路自体が崩壊してしまっているわけです。皮肉なことに、今回は文化構想学部の文芸・ジャーナリズム論系というところが不祥事を起こした。本当は文芸とジャーナリズムを一番しっかり洞察しないといけない部署が、最悪の意味での隠蔽体質を露呈してしまったということですよね。これはほとんど文学の自己否定で、非常に困った問題なんだけども、しかしこの件に関してちゃんと論理立てて批判をできた業界人は誰もいないわけですよ。「すごい作家が出てきたぞ」と言って、内部に向けてプロパガンダをする能力だけは高いわけだけれども、いざ問題が起こったときに、外部に対しての説明責任を果たすということが、今の文学の人は本当にできなくなっているんですよね。
宇野 普段、偉そうなことを言っている人がいっぱいいる業界なの。文学の世界って。でも、いざこういった事件が起こったときに、自分が仕事をもらっている相手は批判できないとか、将来的に早稲田大学の文芸ジャーナリズム論系と仕事したいと思っているやつとか、全員口をつぐんじゃっているわけね。
加藤 その権力に言いくるめられているということですね。
宇野 それじゃあ何のための文学という話だよね。結局、明治時代から150年経って、日本は近代化できなかったと。日本の近代文学プロジェクトは失敗だった、ということでしかないと思うよ。
福嶋 今回の事件はまさにその失敗の象徴ですね。『美しい顔』という作品が盗作疑惑でメディアに取り上げられた。だとしたら、この作品を絶賛していた文学者は外部に向けて言葉を発さないといけなかったはずです。その場合、文学を背負っていかなければならない。しかも、バッシングされている対象を背負っていかないといけないわけだから、大きなリスクを負うわけだけれども、それだけの勇気も知性もないわけです。他流試合をできる主体が、文学にはほとんどいないんですね。
その意味で、文学に限らず日本全体がそうなっていると思いますが、今起こっていることは、一種の中年オヤジ化なんですよね。不祥事を内部告発するメッセージを出しても「君は若いからいろいろ言っているけれど、組織には難しいことがあるんだよ」とかなんとか言って適当に受け流すとかやり過ごすとか、そういう技術ばかりが発達しているわけです。ですから僕は、もう一度内側からまっすぐにものを言う、そういう態度を復活させていかなければいけないと思うんですよ。別の言い方をすると、あらためて青年になるということですね。世間や組織におもねる中年オヤジであることをやめて、もう一度まっすぐものを言える頭のいい青年的な主体を育てていかないといけない。
宇野 本来、文学は個であるために、世間の空気とか社会のしがらみとか、そういったものから切り離されて、言葉の最高の意味で「孤独」になるための装置だったんだけど、今、残念ながら日本の文学は、ある村のメンバーシップを確認するための装置になってしまっている。
福嶋 今回はそれに加えて、ポリティカル・コレクトネスの問題があります。『早稲田文学』のある編集委員の方がこの事件を契機に辞任をしたわけですけれども、そのときに彼はTwitterで「#WeToo」というハッシュタグを付けて辞めていった。もちろん気持ちはよくわかりますよ。しかし、彼は編集委員という大きな役割を負っているわけだから、そんなハッシュタグひとつで「僕は嫌になったから辞めます」とされちゃうと非常にマズいわけですよ。そこは言葉を扱うプロなんだから、ちゃんと模範を示してもらわないと困るわけです。なのに、ハッシュタグに沿って言えばみんな分かってくれるだろうという馴れ合いの状況がある。これも文学と個の劣化です。
ポリティカル・コレクトネス関係で、僕はインターネットで批判されているようですが、僕が言わんとしたのはこういうことです。確かに「MeToo」運動は非常に功績があったと思うんですよ。それによって、これまで声をあげられなかった女性が声をあげられるようになり、支援を受けられるようになった。これは大変素晴らしいことだけれども、「MeToo」という言い方そのものは、非常に急激な同一化を意味する言葉なので、まさに個の問題とはちょっとズレてしまうところがあるわけですね。まして、それが「WeToo」になってしまうと「私たちは同じだ」となってしまうわけですから、その場合に個とか主体は、さらに言えば他者はどこに行ってしまうのか? という疑問が出てくるわけですね。
宇野 「MeToo」運動が世の中にプラスの側面をもたらしたというのは、政治的な評価なんだよね。それを完璧に認めた上で、文学的な評価や文化的な評価としては、「私も一緒」ということだけで問題を告発するのとは違うやり方も同時に考えにおいた方が、より問題の複雑さや繊細さに迫れるんじゃないかという、これは文学的な発想なわけ。そこが今、全然なくなってしまっているんだよね。
福嶋 そういうオルタナティヴを出すのが文学者の役割ですね。僕は「WeToo」というくらいならば「With Us」(あるいは「With You」)という言い方のほうがいいと思います。苦しみを背負った人に対して「私も一緒」とためらいなしに言うのではなくて、非常に苦しいことはわかる、しかし私はあなたとは違う人間である、それでも私はあなたの苦しみのそばにいます、と。そういう寄り添い方も当然あるわけですよね。「同」ではなく「他」を踏まえた「共」ということです。本当は文学とはそういう言葉の発明の営みなんですね。今、流行っている言葉に対して、乗るか乗らないかで考えるのは非常に貧しい。むしろ言葉そのものへの批評が必要です。だから、一般的に作家は小説を書いたり、詩を書いたりする人だと思われているけども、それだけではなくて本来は社会に流通している言葉に対して、批評的にアプローチしていく、そういう役割も負っているはずなんですよね。今の文学者はそのことを忘れていて、ネットの言葉と同化してしまっている。
宇野 「MeToo」という政治的な達成がよりよく活きるために「With US」という文学の思考が必要であるという話なんだよね。
その上で聞いてみたいのは、ここまで機能しなくなった日本における文学というものを、どう再起動させたらいいのか。どう思います?
福嶋 やはり歴史的にみるべきでしょうね。西洋を中心に19世紀、20世紀、21世紀と分けるとすると、20世紀は非常に実験的な文学が多かった時代なんですね。かなり大雑把に言うと、19世紀の作品は全知全能の神の視点というのがちゃんとあり、その視点から世界を見ればそのすべてを把握できると、そういう信念があったわけです。しかし、20世紀になるとそもそも神の視点で世界を見るのは難しいんじゃないかとなってくる。世界も複雑になり、文学以外の新しいテクノロジーも出てくるからです。
したがって20世紀は、言ってみれば、文学のプログラミング自体をもう一回やり直そうとした時代です。時間の流れ方とか空間の作り方とか語り手の場所とか、そういうシステムを解体して、もう一回ゼロベースで考えましょうよというのが20世紀の文学なんです。なので、普通の観点からみると読みにくかったりするんですよね。時間が直線的に進まなくて、あっちこっち行ったりするからです。だけど、一回解体したことには非常に大きな意味がある。ただ、21世紀になるとそういう実験もかなり飽和してきて、あまりやることが残っていないわけですよ。そうなってくると、20世紀の実験を踏まえつつ、大きな問題を捉えていた19世紀の文学をそこに上手いかたちで融合させることが、21世紀に必要なんじゃないかなと考えています。
宇野 こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、超大雑把な言い方をすると、19世紀の文学は究極的には、総合小説で教養小説だったと思うんだよね。すごい社会的な機能を負っていたわけですよ。それが20世紀になったら、一言でいえばその役割は、劇映画にとって代わられてしまった。
19世紀は文学の時代で、20世紀のインテリは19世紀の古い教養、「文学の言葉」でコミュニケーションをとっていた。そして、20世紀は映画が社会的な機能を担っていて、人々は映画を通して社会を知り内面を育んでいた。なので、21世紀の世界中のインテリは20世紀の「劇映画の言葉」でコミュニケーションをとると思うんだよね。じゃあ、文学は20世紀にどうなったかというと、すっごい一言で言うと、全部が広義のメタフィクションだった思うわけ。19世紀の文学は、個人が社会について考えるための蝶番というか、窓みたいなものだった。でも、20世紀の文学は、今、僕たちが生きている社会の前提条件を疑うための薬というか、きっかけみたいなものだと思うわけね。こういう視点から、21世紀に読まれるべき小説は何か。20世紀を席巻した劇映画、テレビすらも過去の教養になりつつある今、どういう文学が今必要とされているのか、というところから、問いを立て直すべきだと思うわけ。
「香港」という都市を巡る問題
加藤 まだまだお聞きしたいお話はたくさんあるんですけども、次のテーマにいきましょう。次のキーワードは「都市」です。この都市はどういった意味でしょうか?
宇野 都市について考えることが大事だということは僕もずっと考えていて。これってほとんど福嶋さんからもらったテーマに近いと思っていると。
前回、猪子さんがその席に座っていたんだけど、彼も近い問題意識を持っていて2016年のブレグジットだったりとか、あるいはトランプの当選というのも、ある国の中での政治勢力同士のぶつかり合いと考えるのはちょっと間違っているんじゃないのかと。むしろ、都市対国家という考え方で見たほうがいいと。グローバル化というのは、国境がなくなることではなくて、グローバルな都市、ロンドンとかパリとかニュートークとか東京とかシンガポールが、勝手につながっていくことだ思う。その新しい世界の中心になるのは、グローバルな情報産業で。彼らは今のグローバル化した世界とか、情報化された世界、境界のない新しい世界をを肯定していると。
ただ、ほとんどの人間はまだ20世紀的な工業社会の中に生きていて、国民国家を経済的にも精神安定剤的にも必要としている。だから、グローバルな都市対ローカルな国家の対立なんだということを、猪子さんとも先週ここで話したわけなんですよ。
僕らの共通の友人にチョウ・イクマンという男がいて、福嶋さんは今年の6月に、彼との往復書簡をまとめた『辺境の思想 日本と香港から考える』という書籍を出しているのですが、その中で、この議論をたくさんやっているんですよ。グローバル化へのアレルギー反応としてナショナリズムが噴出している今だからこそ、都市を基準に21世紀的な新しいナショナリズムを乗り越えていこうという議論をしている。僕はそこにすごい感銘を受けたので、あらためて今日はこの話をしたいなと思って、このテーマを設定しました。
福嶋 今、香港ではナショナリズムが勃興しているんですね。これまでは言ってみれば、ある意味「歴史のない都市」だったわけだけど、最近中国に圧迫されて「自分たちのナショナル・アイデンティティは何なのか」という問い直しが始まっているんですね。宇野さんが整理してくださったように、今、都市的なものと国家的なものが対立しているわけですが、香港はその両方を組み込んでいて、とても興味深い状況にあります。
日本では90年代頃に香港がブームになって、ウォン・カーウァイとかいろんな有名な作家が流行したんだけど、香港が中国に返還されてからは、香港が話題になることは減ってしまった。しかし、香港には普遍的な問題がある。さっき僕は、日本は中年オヤジ化しているのでないかと言いましたが、それに比べると香港は非常に若々しくて、まさに青年ですよ。昨日か一昨日に、たまたまチョウさんとチャットをしていたら、彼は日本の歴史に詳しいので、今の香港は幕末みたいなものですと言っていましたけど。
宇野&加藤 (笑)。
宇野 香港人がそのたとえをするってすごいよね。
福嶋 ちょっとすごいことですよね。彼はなかなかおもしろくて、網野善彦を引きながら都市は「アジール」だと言っています。アジールとは避難所とか聖域のことですが、要は他ではいられなくなってしまった人たちを収容することのできる、そういう特別な空間ですね。それが中国化によって失われていくことが非常に大きな問題だという論じ方をしているんですね。
都市とは他ではいづらい存在を匿える場所である。僕は日本でも、そういう「都市的なもの」をうまく導入できればいいなと思っていたわけです。たとえば、この本の最後の方に書いたんですが、僕は日本語そのものが、今後はいわばアジールのようなものとして機能していけばいいんじゃないかと思うんです。実際、この本ではチョウさんはかなり反中国的なことも書いているわけですよ。ということは、中国語や英語で書いちゃうと、彼は政治的に危ない。しかし日本語だと、日本語の話者は1億人以上いて、しかもそれなりに出版の市場もある。平たく言うと、こそこそ悪いことをしてもバレないということですね。日本語そのものにアジール的なところがある。そういうふうに日本や日本語を読み替えていけばいんじゃないかというプランだったんですよね。
宇野 それをさっきの話につなげると、日本語と中国語が担っている「文学」がどんどんアジール性を失ってきているということでしょ。ただの村になっているということですよね。でも、その上で聞いてみたいのが、たとえば、香港でいうと、僕は福嶋さんとチョウさんの往復書簡を読んだときに、端的に香港は今、結構ヤバいんじゃないかと思った。チョウさんが整理しているけど、今の香港の民主化運動の流れは、昔ながらのリベラル派がいると。団塊世代中心であると。彼は北京と対話をして香港の自治を獲得しましょうとしているオーソドックスな左翼であると。言ってしまえばね。対して、今台頭しているのが、本土派といって赤い資本主義に汚染された北京のやつらは本当の中国人じゃないと。俺たちこそが真のチャイニーズなのだというかたちのナショナリズムの一派が、今、非常に力を持とうとしていると。これをさっきの福嶋さんの言ったことに併せて整理すると、まさに香港が自ら都市性を捨てて国家になろうとしているということだと思うんだよ。俺はここが非常に危険だと思うんだよね。これをやってしまったら、香港が香港である理由ってないと思うんだよね。
福嶋 まさにそのことが非常に大きなテーマですよね。これはとても難しいところで、香港ははたして独立運動をしたほうがいいのか、しないほうがいいのかは、僕も書きながらよくわからないところだったんですよね。僕自身は宇野さんと非常に近い立場でこの本を書いているんだけれども、だからといって、チョウさんが独立運動に近づいていることも否定しづらいところもあるんですよ。だから、この問題はある種の迷宮みたいなものです。しかし考えてみれば、世の中はだいたいの問題がほぼ迷宮ですよ。そんな簡単に白か黒かで答えが出るような問題はほとんどない。そういうことを学ぶ上でも香港はいいのではないかと思うんですね。
宇野 香港がいかに国家にならずに、都市の独立を保つかということなんだよね。
福嶋 そうです。僕がこの本で提案しているのは「都市的アジア主義」というモデルです。これまでのアジア主義は国家ベースなんですよ。日本と韓国と中国とインドが「東アジア共同体」を作ってみんなで仲良く……みたいな話なんだけど、今はどちらかというと、都市間ネットワークを単位にして、上海と北京と深センとシンガポールと東京と香港と……というように見ていったほうがコミュニケーションしやすいでしょう。国家をベースに出すと、必ず反発する人がいるわけですよ。「中国と仲良くしよう」と言ったら、絶対に「嫌だ」という人が吹き上がってくる。政治的なコミュニケーションの環境自体も、都市をベースに組み立て直していくべきだと思います。
宇野 やっぱり国家は政治的な産物なわけなんだよね。で、都市って経済的なものじゃない。だから「赤い資本主義」というのは国家としては非常に先鋭的なんだけど、経済的には圧倒的に自由であるべきであると考えていると。トランプのせいでどうなるかはわからないけどね。トランプに対抗するために硬化する可能性は非常に高いけど、深センとかあのへんのやり口を見たとしても、沿岸部の都市に関して、北京政府は態度を決めかねていると思うわけ。そこで香港の自治を守ろうというのは、俺はつけ込む隙があると思うんだよね。
福嶋 逆に、あまり政治的に激しいことをすると反動がきついんです。
宇野 だから、経済的な独立を重視することが、香港が国家であり都市であり続けるための条件だったわけ。だから、政治的な独立よりも経済的な独立を重視したほうが、圧倒的に彼ら彼女らはいいと思っている。
福嶋 まったくその通り。
宇野 でも、反発もあると思うけどね。
新たな覇権国家・中国といかに向き合うか
加藤 まだまだお話を聞きたいところですが、最後のキーワードにいきましょう。「中国」になります。こちらの中国についてお願いします。
宇野 ここで中国と考えたのは、さっきちょっと言いかけたことでもあるんだけど、まさに僕らが生きている21世紀前半が後にどういう時代だったと言われる可能性が高いかというと、アメリカから中国に覇権国家が移った。もしくはパクス・アメリカーナの時代は終わって、アメリカと中国の二極化の時代になったと言われる可能性がものすごく高いわけですよね。今の資本主義プラス民主主義でやっていた西ヨーロッパとかアメリカとか日本とか、全部だんだん行き詰まり始めている。その中で中国は政治的には共産党の一党独裁であると。いわゆる専制政治だよね。独裁支持であると。ただ経済的には無限に解放していくという。いわゆる「赤い資本主義」にものすごく自信を深めている。我々の制度の方が優れているんだと。なので、少なくとも僕らが生きている間は、中国という存在は無視していけないし、「中国」と「それ以外」の世界にどんどんなっていく。その中で、僕らのような20世紀後半に生まれて民主主義と資本主義の教育を受けてきた人間が、どういう態度をそこに示していくのが非常に大きい問題なわけ。これに対して、あらためて福嶋さんに聞いていきたいです。
福嶋 時事的な話からすると、今年の9月でリーマンショックからちょうど10年ですね。リーマンショックからアメリカが回復できたのは、中国が米国の国債を買ってくれたことが一因ですね。その点ではアメリカは中国に恩義があるわけです。しかし、今はいわゆる米中貿易戦争が深刻化していて、お互い関税の引き上げ合戦みたいなことになりかねない状態にある。中国からしたら「あのとき助けてやったのに、恩を仇で返された」みたいなかたちでしょう。アメリカも現状景気はいいわけですが、そうやって関税をどんどん上げていったら、世界経済自体が沈滞化してしまうことは目に見えている。そういう意味でいうと、結局誰も得しない可能性が高いわけです。今年は米中関係自体がここ10年の中でも非常に悪化している状況で、経済的・政治的には大きな岐路にあると思いますね。
宇野 でも、日本はまさに辺境に存在していて、そういった米中関係の中で揺れ動くしかない存在だと思うわけ。主体性がはっきりしない。だから、どこを守るかという話なの。日本が守れるのはどの領域なのか。僕はこれをだいぶ考えたんだけど、「赤い資本主義」とは違うかたちでの民主主義の乗り越え方みたいなものを、僕らが出していくしかないのかなと思うわけ。なんとなく戦後の西ヨーロッパとかアメリカとか日本というのは、民主主義でやっていきましょうと、資本主義でやっていきましょうと。この二つをどう回していくかについては、マスメディアを上手く使いましょうよと。マスメディアを政治から切り離せば、ヒトラーみたいなやつも出てきにくいし、バランスのとれた世論も形成でるし、極右とか極左が政権をとって戦争になることもない、ということでずっと回してきたんだけど。それは失敗だったと思うんだよね。結局この半世紀ぐらい西ヨーロッパとか日本が安定していたのは、言ってしまえば冷戦ボーナスで。冷戦でアメリカが勝ったから、おこぼれで経済が安定していたから、政情も安定していただけなんじゃないかということを、みんなもう気づき始めているわけ。しかも、今インターネットとか生まれて、どんどんどこの国もポピュリズムになっちゃっているわけなんだよね。だから、このままいくと非民主主義プラス資本主義の中国に、民主主義プラス資本主義のアメリカ、西ヨーロッパ、日本というのは絶対に負けちゃうんだよね。僕らの弱点というのは、どう今の民主主義をアップデートするかということが、どうしても必要になってくるんじゃないかと思っているわけ。
福嶋 そうだと思います。ちょっと文明論的に言いますと、1950年代に梅棹忠夫という人が、『文明の生態史観』という有名な論考を出したんですね。この中で第一地域と第二地域という区別があります。第一地域とはまさに辺境のことで、ユーラシア大陸の端にある二つの地域、具体的にいうと日本とヨーロッパのことですね。この第一地域では資本主義が非常に発達した。それに対して、第二地域は内陸の帝国的な世界で、ロシアや中国やインド等です。この地域は梅棹さんの見立てによると、資本主義はあんまり機能していないという話になっていた。
けれども、21世紀になってみると、むしろ第一地域の方が没落しつつあるわけです。そして、非常に権威主義的で、本当だったら資本主義に適していないと思われていた帝国的な第二地域が、資本主義の強国になってしまった。ですから、今起こっていることは文明史的にいえば、第一地域と第二地域の戦いのなかで後者が優勢になりつつある、そういう状況だと思うんですよ。
香港は今の分類でいうと第一地域の端っこの辺境の都市で、資本主義のマーケットとして非常に機能している。今後第一地域的な民主主義をアップデートするときに、今や中年化してしまった日本からはなかなか良いアイデアが出てこないから、香港の人たちにアイデアを借りたいなということです。
宇野 その意味でいうと、香港で民主主義をなんとか生き延びさせようとしている。そのときに、どの部分を生き延びさせるかという問題に、彼らはぶつかっているわけだよね。それが思想・信条の自由なのか、参政権・非参政権のレベルなのか。そこにはいろんな議論があると思うわけ。今の僕らが20世紀後半の間ずっと信じてきた民主主義に対して、ある部分を受け渡さないと中国に対抗できないというときに、どの部分を持って、どの部分をあえて捨てるのかという。そこに対して見極めが必要な段階に残念ながらきてしまっているという。
福嶋 そうですね。西洋流の国民国家がどの程度、東アジアで上手くいくのか、それがまた大きな問題なんですね。日本はたまたまヨーロッパの国民国家のシステムが上手くいって、ひとまず近代国家になれた。しかし、香港は非常に小さな都市なので、独立して国民国家になるといってもちょっと大変だろう。逆に中国の西側の方には、新疆ウイグル自治区という非常に大きな場所があるわけですね。今ここでも中国に抵抗して、独立運動が起こっているわけです。しかし、これはこれであまりにも大きすぎるので、とても一つの国家として独立はできない。ヨーロッパのスケールではある程度、国民国家というシステムが機能したけれど、アジアに持ってきたときにはそれがうまくいかない可能性は結構あると思うんですよ。そういう意味でも、ヨーロッパとは違うやり方で政治体制を作っていくモデルに、香港はなりうるということですね。
宇野 つまり、国家の政治じゃなくて、都市の政治のほうにシフトしていくべきだということでしょ。
福嶋 そうしないと民主主義はあまり上手く機能しないということがあるでしょうね。
宇野 言い換えると、都市単位だったら、まだ民主主義に可能性があるということでしょ?
福嶋 そうです。
宇野 だとしたときに聞いてみたかったのは、今の日本の都市をどう思うか。たとえば、東京ってひとつの都市として考えるにはデカすぎるんだと思うんだよね。単純に面積も広いし、人口規模も多いじゃない。今、東京がこんなにグダグダになってしまっているのは大きすぎるからだと思う。だって、香港よりも現にでかいわけじゃん。日本で国家ではなく都市に水準して、これからの新しい政治システムだったり、民主主義のあり方だったり、文化を考えていこうといったときに、まず僕は東京を解体ところから始めたほうがいいと思う。
福嶋 実はそれは江戸時代から続いている問題ですね。荻生徂徠という思想家が江戸の民衆は北は千住から南は品川まで、どんどん勝手に家を作って市街地を広げてしまって困ったもんだ、みたいなことを書いているんですよね。今おっしゃったのは、まさにこの徂徠的問題ですね。東京は枠がないので、勝手にどんどん膨らんでしまうという非常に大きな問題がある。それをうまい具合にダウンサイズしていくのが今後の課題になってくるでしょうね。
宇野 ダウンサイズもいいし、いくつかに分割するのもいいんだけど、東京を都市として機能するサイズにシュリンクするところから、この国の再生みたいなものを始めるべきかなと思っているのね。
福嶋 素晴らしい。まったく同感です。
〈文学〉と〈都市〉を再設定する
加藤 福嶋さんと宇野さんの議論をまだまだお聞きたいところなんですが、そろそろまとめに入りたいと思います。辺境としての日本を考えるという議論から浮かび上がる未来のブループリント、フリップにお願いします。
はい。書きあがったということで、福嶋さんからお願いします。
福嶋 僕はこれですね。「怒りを公共化せよ!」。日本人は怒りの感情を我慢する傾向にあって、そのぶん妬み、そねみ、恨みとかそちらの負の感情のほうが強い。しかし、社会的な不正みたいなものには怒るべきなんですよ。今の日本人が忘れているのは「正しく怒る」ということであって、それをどう公共化していくかが、今後重要になっていくんじゃないのかなと考えますね。
宇野 それって今日の冒頭の話に結びつけると、本来は都市でありアジールであった「文学」が、今、言葉の最悪の意味で「村」になってしまっていることを言っているわけだよね。今回の福嶋さんの文壇に対する告発は、十分に公共的なメッセージだと思うし、その公共化のプロセスとしてREALKYOTOの寄稿があったんだけど、その先に福嶋さんがこの先、文学を捉え直して、何を読むべきかとか、文学にどう向き合っていったらいいのかを、主導していくことが必要だと思うんだよね。そういう仕事を一読者として読みたいなと思っています。
福嶋 ありがとうございます。
加藤 続いて、宇野さん、フリップをお願いします。
宇野 僕は即物的なんだけど、「長崎2.0」。
加藤 長崎2.0とは?
宇野 つまり、江戸時代における長崎だよね。長崎は今で言えば福岡なのかもしれない。たとえば、福岡は今、グローカル戦略を取っていて。日本はどんどん鎖国していっているというか、グローバル化に立ち遅れてしまっているけど、「俺たちは大陸に近いから勝手にやるぜ」というのが今の福岡市なわけなのね。あそこは少しおもしろくて、隣には小倉というか北九州市があると。あそこは戦前から20世紀を代表する工業都市で、ぶいぶい言わせていたわけ。福岡は全然工場とかなくて、立ち遅れた土地だったけど。そこのことが今、逆にプラスになって、ITベンチャーとかいっぱいやって来て、情報産業の都市としてグローカル戦略が成功しているわけなんだよね。ああいったアプローチが福岡以外でも、あんなに条件がそろったところは福岡しかないと思うんだけれど、どんどん見つけていってもいいし。東京をいくつかに分割したときに、ああいった力を持てたらいいなと思うわけ。150万人とか200万人とか、それぐらいのサイズなんだけど、その規模だったら個性を出して身軽に世界とつながることができると思うの。なので、江戸時代における長崎みたいな、そういった都市像をどう作っていくのかがこれからの日本のキーワードなのかなと思っていて。これは実際の都市の話だけじゃなくて、文化空間でもそうだよね。だから、文壇はクソでもPLANETSは頑張るみたいな。言ってみれば、文壇が村なら、PLANETSは出島であると。そういったことができればいいなと僕はあらためて思いました。
加藤 ありがとうございます。ということで、NewsX火曜日そろそろお別れの時間です。福嶋さん、今日はありがとうございました。
福嶋 ありがとうございました。
加藤 いかがでしたでしょうか?
福嶋 とても楽しい時間でした。しゃべり足らないところはありますが、続きはPLANETSで、ということで。
宇野 でも、本当にあらためて今、文学とかみんなどうでもいいと思っているじゃない。はっきり言ってしまうとね。
福嶋 うん。そうだね。
宇野 年に二回、芥川賞が発表されたときに、なんとなく「今度はこの人が受賞したんだ」とみんな半日だけ関心を持って、あとは忘れていっているじゃない。昔話になっちゃうけど、僕と福嶋さんが出会った頃は、ライトノベルとかミステリー小説とかSFとか、文学の外側に新しい小説がいっぱい出てきて、インターネットで書き手の数もドンと増えて、新しい文学がここから始まるんじゃないかという予感があったんだよね。本当に昔話だけど。
福嶋 いや、僕もまさにその時代の亡霊に取り憑かれて、REALKYOTOで文章を書いてしまったわけですよ。
宇野 いや、そういったところも含めて、僕も本当に全力で支援したいと思っているんだけど、福嶋さんには文学をもう一回、再編成してほしいんだよね。僕たちが思考するときに必要な言葉で書かれた物語とは何かということを、もう一回、位置付け直すことをやらなきゃいけないタイミングなんだよね。そうすることで、本当に数十人のサークルの空気ですべてが決まってしまう村の文壇とは違う文学の世界が生まれるだろうし。そこから僕は新しい読者が生まれてくると思うんだよ。
福嶋 今の批評は業界に対する挨拶みたいになっているんですよね。その村への挨拶が上手い人が、とりあえず書き手として重用されるという、非常につまらない状況になっているわけです。しかし、本当は批評というのは価値の操作なんですよ。それまで積み重ねられてきた情報をうまい具合に組み合わせて、新しい価値を創造していくのが批評の仕事なんですね。特に文学はその批評の中心になってきたので、そういう意味でも頑張りたいなと思いますね。
(了)
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