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“辺境”としての日本を考える | 福嶋亮大

宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月11日に放送された第2回のテーマは「“辺境”としての日本を考える」。文芸評論家の福嶋亮大さんをゲストに迎えて、近代以降の西洋文明の〈辺境〉に位置するこの日本で、閉塞しつつある〈文学〉と〈都市〉をいかに再設定するかについて考えます。(構成:籔和馬)


NewsX vol.2
「“辺境”としての日本を考える」

2018年9月11日放送
ゲスト:福嶋亮大(文芸評論家)
アシスタント:加藤るみ(タレント)
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〈辺境〉という視点から見えてくるもの

加藤 火曜NewsX、本日のゲストは文芸批評家、福嶋亮太さんです。まず宇野さんから福嶋さんについて、簡単なご紹介をお願いできますか?

宇野 10年ぐらい一緒に仕事をしている僕の親しい友人であり仕事仲間なんですが、立教大学の中国文学者なんですよ。ただ中国の研究だけじゃなくて、現代日本の文学に対する批評だったり、ポップカルチャーの批評だったり。いろんなジャンルに関して発言されている方ですね。

加藤 今日のトークのテーマは「辺境としての日本を考える」ですが、これは?

宇野 「辺境」というキーワードは、まさに福嶋さんからもらったものなんですが、今の日本は自意識過剰になっていると思うんですね。片方では愛国ポルノと言われているような「日本はこんなにすごいんだ」もしくは「すごかったんだ」、「日本人は他の民族に比べて優れているんだ」と。特に取り柄もなく、自分が日本人であること以外に誇るものがないような人が、そういう本やメッセージに癒されていると。もう片方では「日本は失われた30年によって二流国に転落してしまったんだ」と。これは事実なんだけど、とにかく日本は遅れているから、シリコンバレーや欧米を見習いなさいということで、ひたすら日本を自虐的に捉えることを一生懸命言う人も増えている。これはコインの裏表だと思っているんだよね。どっちも日本という国が世界中から見られ気にされているという前提で思考していると思う。でも、残念ながら、そんなことはもうないよ。政治的にも経済的にも、日本は存在感そのものがなくなっているわけね。みんな日本のことを中心だと思っているけれど、もう日本は世界の辺境であると僕は思うし。歴史的に見ても、ずっと辺境だったと思うんだよ。これは、まさに福嶋さんが最近の新著でおっしゃっていたことなんだけど、近代以前の中国文化圏は辺境なわけね。日本は東のはずれなんだよ。なんだかんだで漢字とか使っているしね。
近代以降は世界の中心はアメリカやヨーロッパであって、やっぱりアジアは辺境なんだよね。日本は辺境の中で近代化にたまたま成功しただけ。でも、辺境であることは別に悪いことじゃなくて、世界の片隅にあるからこそ見えるものはいっぱいあるし、できることもいっぱいあるわけだから、もう一回、辺境としての日本を考え直してみたいと思っていて。それで僕に「辺境」というキーワードを与えてくれた福嶋さんをお呼びしたわけです。

今の〈文壇〉の閉塞的状況を考える

加藤 このテーマを語るために三つのキーワードを用意しました。まず一つ目が「文学」。なぜ文学なんでしょうか?

宇野 ちょうど半月ぐらい前に福嶋さんが「REALKYOTO」というウェブマガジンにセンセーショナルな文章を発表されたんですよ。それはまさに日本の文壇、つまり文学業界ですね。作家とか文芸評論家とか文学者の寄り合い所帯ですね。ひとつの村社会みたいなものがあるんだけど、そこの問題を告発した内容なんですよ。具体的には6月に発覚した早稲田大学のセクハラ問題。ある有名な評論家兼大学教授が女子大生にセクハラをするんだけど、それを大学ぐるみで揉み消そうとしたということが今大問題になっているわけなんですよね。もうひとつは芥川賞の候補作にもなった『美しい顔』という小説があって、あるノンフィクションからの丸パクりの箇所があるということで、これも大問題になった。この二つの問題は一見、週刊誌的なスキャンダルネタなんだけど。でも、実はそこのことを告発したいわけじゃなくて、そのことを話の枕にはしているんだけど、そうじゃなくて、なんでもかんでもコネクションというか、特定の人間関係で全部決定されてしまうような日本の今の文学業界が問題だと言っているわけ。早稲田大学の問題でいうと、なんでこんなことが可能になるのかというと、早稲田大学の文化構想学部の文芸・ジャーナリズム論系というある学科が、ある文壇のグループの植民地というか、そこに占領されちゃって私物化されているのね。だから、そこのボスみたいな教員さんがセクハラをしても、大学ぐるみでの揉み消しが可能になっちゃっているわけ。これ酷い話でしょ?

加藤 酷いですね。

宇野 『美しい顔』の問題というのも、村社会の中である作家、彼ないし彼女を次のスターにするということが決まっちゃうと、誰もその作品も批判しちゃいけない空気になるわけ。なので、結構アラの多い作品であることは、実はあちこちで言われていたんだけど、すごく大切に甘やかしてまって、このような問題が起きてしまっている。
福嶋さんはそういったスキャンダルを追求したいんじゃなくて、そういった日本の文学業界の閉鎖的な体質を告発しているんだと思うんですよね。そのことは文学という狭い業界だけの問題じゃなくて、今の日本全体を象徴してしまっているんじゃないかと思って、このテーマを選びました。

福嶋 非常に的確にまとめていただいて、ありがとうございます。
まず文壇とは何かというところから整理していくと、文学とは何であり、社会的にどういう機能を帯びて、どういう役割を果たし得るかといった問いを、実作や翻訳や評論や座談会を介して議論していく、本来はそういう場なんですね。そもそも文学は一つの答えが出るわけではないので、複数の答えがあり得る。それを多事争論でワイワイガヤガヤやりながら鍛え上げていくこと。一言で言うと、そういう「大きなコミュニケーション」を保つための場が文壇です。そのコミュニケーションを外部の新聞の文芸時評がチェックし、一般読者にもわかるようなかたちで広げていくというのが、本来あるべき姿なんですよね。よくライトノベルと純文学のどこが違うんですか? という話があるんですが、それは質が違うというよりも、大きなコミュニケーションを担ってきたかどうかという、その歴史が違うわけです。純文学はそこを担ってきたことになっているからこそ、公益性があると見なされるわけです。
しかし、今起こっていることは、そういう豊かなコミュニケーションを育てるというよりは、宇野さんがおっしゃってくださったとおり、文壇そのものが一種のプロパガンダ装置みたいになっているわけですね。それまで文学が積み重ねてきた価値基準や評価基準があるはずなのに、それは最近では全部どこかにいってしまって、新人賞の選考委員や新聞時評の人たちも、ポッと出てきた新人の作品を熱烈な調子でただ褒めるだけ。これでは本来文学が担ってきたものを育てることはできない。ですから、結局ここにはエスタブリッシュメントの腐敗や堕落という問題があるわけです。これは今の日本社会で起こっている問題そのものです。大学であれ、文科省であれ、財務省であれ、本来は重大な社会的責任を果たすべきエスタブリッシュメントこそが根本的に腐敗していて、文壇もその一部になってしまっている。だから、そこにショックを与えるために僕はわざと強い調子で内部告発することにしたんです。

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