宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第5回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(2)
2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載『母性のディストピア EXTRA』。アニメファンの間で定着している「聖地巡礼」という文化、そして疑似同性愛的コミュニケーションの消費。そこには「空気系」の世界観が大きく寄与していると宇野常寛は指摘します。
(初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
データベースと聖地巡礼
〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉の関係性=「つながりの社会性」が肥大する——。「空気系」の前提となる社会の風景は、多分に政治的に決定されたものだ。
たとえば前述の「無場所性」について考えてみよう。前節で紹介したように『木更津キャッツアイ』における千葉県木更津市は、その典型的な「郊外」の風景によって無場所性の象徴として機能している。グローバル資本主義が画一化させる消費環境とライフスタイルが、この「無場所性を体現する風景」を体現しているのだ。そしてこの「郊外」の風景は日本においてもまた、当然極めて政治的に醸成されたものだ。「ぶっさん」が二十歳まで木更津から出たことがないという設定は、彼の性格設定上の演出ではなくむしろこの物語世界の比喩に基づいたものだと考えたほうがいいだろう。本作は、世界中のどこへ行っても同じ風景(同じライフスタイル)が存在する現代、グローバル/ネットワーク化によって世界が一つに接続され、〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉だけが無限に広がるようになってしまった現代社会を、木更津という無場所的な郊外都市に象徴させているのだ。「ぶっさん」は、木更津から出られなかったのではなく、どこへ移動してもそこが木更津と変わらない場所だから「出なかった」のだ。「空気系」はその外見とは裏腹に、極めて政治的な「風景」に規定されてきた想像力でもあるのだ(※1)。
郊外都市の風景が体現するグローバル/ネットワーク化後の世界の風景の下、ローカルな関係性がアイデンティティ獲得の要素として肥大する=「つながりの社会性」が肥大する現代において、「空気系」は極めて直接的に消費者の欲望を捉えていると言える。だが第1節で述べたように、私がこの「空気系」に注目するのは、その消費者の欲望に忠実なサプリメント性を引き受けるがゆえに、少なくとも「ユニーク」ではある奇形的進化を遂げているケースが少なくないからだ。前述の『リンダ リンダ リンダ』や『木更津キャッツアイ』が、空気系への分析的アプローチによって成立しているメタ空気系とも言うべき作品群だとするのならば、これから取り上げるのはその一方で極めてベタに空気系的な欲望を追求することで、異質なものを結果的に読み込んでいる作品群、いや、消費者たちの作品受容だろう。
たとえば「空気系」の代表作である美水かがみ『らき☆すた』は2007年に放映されたテレビアニメ版をきっかけに、「聖地巡礼」というユニークな現象をアニメファンコミュニティに定着させた。これはこのテレビアニメの背景美術に、埼玉県鷲宮町や幸手市など実在の都市の風景をほぼトレースしたものが使用されたことから、同作のファンたちがそのモデルとなったスポット=聖地を巡礼するという「お遊び」である。しかしこの「お遊び」はインターネットを中心にブームとなり、当該の自治体のいくつかは町おこし企画の一環としてこの「聖地巡礼」を奨励し、取り込んでいくという動きを見せた。もちろん、こうしたファン活動自体はそれほど珍しいものではない。だが、ここ数年の「聖地巡礼」ブームはその規模と作品それ自体の性質とのかかわりにおいて特筆すべきものを見せている。
▲『らき☆すた』
後者については補足が必要だろう。本作の、とくにテレビアニメ版は随所にオタク系ポップカルチャーのパロディがちりばめられている。このパロディ群は、無場所的で無時間的な「空気系」の作品世界に、運動をもたらす要素として機能している。つまり端的に理想化されたキャラクター間の関係性を描く「空気系」の予定調和的な快楽に介入可能であり異質な要素としてポップカルチャーのデータベースが選ばれているのだ。〈外部〉を喪った(無場所的、無時間的)な世界を引き受けながらも、それを多重化するために、ここではポップカルチャーのデータベースが導入されている、と言い換えることも可能だろう。そして、このポップカルチャーのデータベースの「活用」は、テレビアニメ『らき☆すた』の作者たちの採った手法であると同時に、同作の消費者たちが「聖地巡礼」で採った消費行動でもある。本来何ものでもない街並みが、ポップカルチャー(ここでは『らき☆すた』)のデータベースを流しこむことにより、その土地本来の歴史性や土着性とは関係なく「聖地」と化すのだ。
批評家の福嶋亮大はここで作用している想像力を「偽史的想像力」と呼んでいる。福嶋がこの言葉を選んだ背景には、ポストモダン的な「大きな物語=歴史」の凋落後の想像力という意味合いが存在すると思われる。〈外部〉を喪い、歴史が個人の生を意味づけないポストモダンの現在において、〈いま、ここ〉の「つながりの社会性」が肥大する。このとき〈外部〉の不可能性を自覚しつつも祈り続けるという否定神学的な態度に捉われることなく、「つながりの社会性」を引き受けながらも世界に想像力を行使する方法として「偽史」が選ばれるのだ。
※1
また無時間性のもつ、子を生み、育て、そして死んでいくという時間的な運動に対する抵抗、または排除という要素は「空気系」、特に男性消費者を対象にした「萌え四コマ漫画」において重要なモチーフとして機能している。たとえば「空気系」の源流とされるあずまきよひこ『あずまんが大王』や、現在(2011年)の「空気系」を代表するヒット作品である『けいおん!』(及びそのテレビアニメ版)では、「卒業」という無時間性を強制的に遮断する装置を経ても(学園を去っても)彼女たちのコミュニティがいかに「そのまま」であり続けるかという主題が、静かに、しかし極めて大きな存在感をもって描かれることになる。
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