国際政治に振り回されたポーランドの論理学 | 小山虎
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第6回。周囲の大国によって領土割譲を繰り返されてきたポーランドの不運な歴史が、アメリカに落ち延びた数学者アルフレッド・タルスキら、オーストリア的な知の継承者たちの運命をいかに変えたのか。戦間期に花咲いた「ルヴフ・ワルシャワ学派」の足跡を中心に辿ります。
知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第6回
国際政治に振り回されたポーランドの論理学 | 小山虎
▲逆ポーランド記法を採用したヒューレット・パッカード社の関数電卓HP-35。通常の電卓とは違って「=」ボタンがない。 By Mister rf - Own work, CC BY-SA 4.0,
「逆ポーランド記法」の由来
今回は、「オーストリア的」な要素を持つ国のひとつ、ポーランドに焦点を当てるのだが、まずは「逆ポーランド記法(Reverse Polish Notation)」の話から始めたい。逆ポーランド記法とは、計算式の表記法の一種である。我々に馴染みの深い通常の数学では、「1+2」のように、数字(1や2)が演算子(+や-)の前および後に位置する表記法が採用されている。だが、逆ポーランド記法では「12+」というように演算子の前に数字が並ぶ。いかにも奇妙な表記法に見えるかもしれないが、この数式「12+」が「1と2を足す」というように、日本語と同じ語順で読めるということに気づかれただろうか。このことに気づけば、むしろ通常の表記法を特に不都合を感じずに使えていることの方が不思議に思えてくるかもしれない。
逆ポーランド記法はいくつかの点で通常の表記法よりコンピューター上の処理に適している。たとえば、カッコがあってもなくても計算する順序が変わらないため、カッコは無視して計算できる。そのため、ヒューレット・パッカード社が1970-80年代に発売した関数電卓で採用され、広く知られるようになった。
ちなみに、「逆」がつかない、ただの「ポーランド記法」もある。この表記法では、「+12」というように演算子の後に数字が並ぶのだが、こちらがオリジナルである(だからこそ「逆」ポーランド記法なのである)。ともあれ、どちらも「ポーランド」式だとされていることには変わりない。その理由は、最初の開発者がヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz)というポーランド人だったからだ。
ウカシェヴィチは、別にポーランドで関数電卓の開発に携わっていたのではない。また、フォン・ノイマンのようにアメリカに移住して開発に携わったのでもない。逆ポーランド記法が最初に提案された論文では、その元になった表記法として、ウカシェヴィチの著作が参照されているのだが、その著作のタイトルは『現代形式論理学の観点から見たアリストテレスの三段論法(Aristotle's Syllogistic from the Standpoint of Modern Formal Logic)』という。ウカシェヴィチは、記号論理学を用いてアリストテレスを研究する論理学者だったのだ。
本連載の第3回でも触れたが、記号論理学は19世紀終わりから20世紀にかけて、フレーゲやラッセルらの手によって生まれる。これを用いて古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスを研究するとはいったいどういうことなのだろうか。どうしてどのようなことが行われることになったのだろうか。これらの問いに答えるためには、まずはポーランドという国家が辿った数奇な運命を眺めてみよう。
国家間の争いに振り回されたポーランドの都市ルヴフ
第二次世界大戦の前まではポーランドが現在の位置になかったことはご存知だろうか。現在のポーランドは、第二次世界大戦以前のポーランドと比べると西寄りに位置する。第二次世界大戦でドイツとソ連に占領されたポーランドは、ポツダム会談の結果、東部をソ連に割譲し、代わりとなる領土を西側に位置する敗戦国のドイツから獲得することになったからだ。この結果、ある都市がポーランド領からソ連領に移ることになった。その都市は、ウカシェヴィチが生まれ育った都市であり、現在ではウクライナに位置するリヴィウ(Lviv)、ポーランド語ではルヴフ(Lwów)という。もっとも、ルヴフは第二次大戦後にソ連領になるまでずっとポーランド領内にあったというわけでもなかった。本連載の第2回でも触れたが、1772年のポーランド分割により、ポーランドのガリツィア地方がオーストリア帝国に割譲される。ルヴフはこのガリツィア地方の首都なのである。こうしてオーストリア帝国の都市となったルヴフは、レンベルク(Lemberg)と呼ばれるようになる。ポーランド時代のルヴフは、ガリツィア地方最大の都市であり、ポーランド全体でも主要都市の一つだったのだが、オーストリア領のレンベルクとなることにより、広大な帝国の片隅にある一地方都市になってしまったのである。
▲第二次世界大戦前後でのポーランドの位置の変化。東側のグレーの領域がソ連に割譲され、西側のピンクの領域をドイツから獲得する。
By radek.s - Own work, CC BY-SA 3.0,
1819年、時のオーストリア皇帝フランツ1世により、レンベルクに大学が再建される(それ以前のポーランド時代から大学はあったが、ナポレオン戦争によるオーストリア財政の悪化により閉鎖されていた)。とはいえ、一地方都市に過ぎないレンベルクの大学には特に目立ったところは何もなかった。だが、20世紀に入ってから大きな変化が訪れる。最初の一歩は、1895年にカジミェシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski)という哲学者が赴任してくることだった。
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