#9 祭りを見て
今日は、桃始笑(ももはじめてさく)。
梅の花に続いて桃の花が咲き(笑き)はじめる頃。暦を見ているとどんなことに関心を寄せて昔は生きていたのかわかり面白い。
昨日、伊勢路に春を告げる「寝釈迦祭り」に行ってきた。
何十軒もの出店が軒を連ね、人々が肩が触れながら歩く様子は、かつての伊勢街道の賑わいが一夜にして蘇ったかのようだった。
露店から漂うたこ焼きや焼きそばの香りから、コーヒーやベビーカステラの香りまでがまぜこぜになって、笑い声や人が行き交う雑踏がそこかしこから響く。
賑わっているいいお祭りだとしみじみ思った。
ふと、
「賑わう」とはどういうことなんだろう
と考えた。
人が、ただたくさん集まっている様子を賑わっているといわない。満員電車を見て、「あー今日も賑わってるわ」とは表現しないからだ。
だから、「賑わう」の中身人が集まる以上にもっと何かあるのだろう。
お祭りを眺めていると、美味しい、楽しい、そして嬉しいを感じている人がたくさんいることを、自分は賑わっていると指しているような気がした。
例のように賑わうがいいとか、賑わいを作るにはどうしたらいいのかというのは僕のなかでは関心がない。
ただ、「賑わう」の中身に、人が活き活きと生きるエネルギー源のような何かピュアなものがある気がして、そこを探ってみたいのだ。
「賑わう」の中身をみてみると、美味しい、楽しい、嬉しいが見つかった。
でも、なんでそれが美味しくて、なんでそれが楽しいのか、それが嬉しく「人」には感じられるのか。今度はそんな問いがでてくる。
露店の食べ物は、言ってはなんだが栄養的に優れた食べ物ではない。食事に敏感な人なんかは不健康を売っていると眉間にシワをよせるかもしれない。だけど、あのお祭りの空気のなかで食べる屋台の食べ物は「美味しい」。
人が嬉しくなる、楽しくなるのも不思議なもので、けっして意図的にはそうなれない。
どういうわけか太鼓がドンドコしているとワクワクしてきたり、美味しそうに何かを食べている人を見るとニッコリほっこりしてくる。
実のところは、なぜ人にとって、それが美味しいと感じられ、それが楽しい嬉しいになるのかわからない。
ただ、気がついたら人は、嬉しいとか、美味しいとか、楽しい気持ちそのものになっている。と、しか言いようがないような気がする。
どうしてそういう気分になるのかわからない。
けれども、嬉しいでも、悲しいでも、どういうわけかそのように感じられるように身体ができているのではないかと思う。
そう感じるようになっている、そのことほど不思議で面白いことはないのではないだろうか。
そうなっている。そこに抗わないで生きる。そんなことをやってみたい。