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#4 見えないものを見ようとする
閏年ですね。暦上は草木萠動(そうもくめばえいずる)。字義通り春がもう戸口に立っているかのよう。
さて、
今日は「見えないものを見ようとする」と題してつらつら書いてみる。
和室を覗くと洗濯物の山脈が炬燵の脇にそびえ立っていた。
6人分の洗濯物×数日は、まさに山。
このところ曇天が続きなかなか洗濯物は乾かない。どうやらつかの間の晴れ間を狙い誰かがみんなの洗濯物を干し、誰かが家に入れてくれたのだろう。
この家は住人が6人いるもののなんのハウスルールもない。
毎朝、誰かが風呂の残り湯を洗濯機に移し、洗濯をしてくれる。
そうすると別の誰かが、洗濯機から洗濯物を取り出し、外に干してくれる。
そして、また誰かが乾いたときに取り込んでくれる。そして、誰かが畳んで棚に戻す。
ただ、今朝、洗濯物の山を見たとき、山になる前に誰かがやってくれたことには一切目が向かず、「せめて洗濯物からハンガーは外しておいて欲しいヨ。やれやれ」みたいなドンヨリした気持ちが真っ先に湧いてきた。
洗濯物を畳むことは、やろう!と思っていたが、自分のなかではハンガーから服を外すのは、「畳む」には入っていなかったようだ。
だから洗濯物を畳みたいのに、「畳む」以外のことから始めなくてはいけないから、やる気が削がれてしまったようだ。
つくづく自分の当たり前がどうなっているのかわからない、と思った。
当たり前が当たり前になった経緯をぼんやり辿ってみると、幼少期から母親「ハンガーから洗濯物くらいおろしといてよ!!!」と言われて育った記憶がでてきた。
そういうわけか、ハンガーから洗濯物を外さないと怒られる。怒られるのは嫌だ。嫌なことが起こらないように注意しよう。転じて周りにもそれを教えなくては。
そして、いつのまにか固まったパターンになり、まるで最初から自分はハンガーから洗濯物が外されていない様子に不快感を覚える人だと思うようになっていったのかもしれない。
日常ほんとうに些細なことをきっかけに何気なくイライラしたりトゲトゲしたりするけれども、実はどこかで覚えたパターンを再生しているに過ぎないのかもしれない。
暮らしの中で、見えないところで誰かがやってくれたから、このような状態にあることに思い馳せる力、それのあるなしで随分人との関わり方は変わりそうだ。