#25聴いてもらえる場があるということ
どうもぼんやりです。
家の庭には桜の花が舞い込み、
近所の小川に桜の花が流れてなんだか心も暖かく、幸せな季節ですね。
最近僕は茶道を習い始めました。
とてつもなく奥深い世界だなあと、まだ始めたばかりですがそう感じています。
今日は岡倉天心の「茶の本」から印象深く心に響いたものがあったので共有したいと思います。
以下引用
いかがでしょうか。この『虚』という概念。
僕はしびれました。美しさのあまり読み終えてしばらく空中を見つめてしましました。
さて、そしてひとつ発見があったのですが
この「虚」何か知っているぞ
という感覚があり
何かなと思うと、我が家の「合宿」でした。
月1回2泊3日コタツを囲んで只話し合う、これを『合宿』と呼んでいるのですが
6人がコタツを囲み、何のルールも設けずただ座ります。
そして心に浮かんでくること、頭の中にあることを場に出し合い、聴き合います
出来るだけ何の意図も持たずに、話し合うのです。
心に浮かんだこと、感じていることをただ話し、ただ聴きます。
判断を置いて、ただ話し、判断を置いて、ただ聴く。これを繰り返します。
そうしているうちに、どうしても持ってしまう、硬い意図がだんだんなくなっていき、場も人も柔らかくなっていきます。。。
これは『虚』を立ち現わそうとしているのではないかと直観します。
1人1人は色々あっても、それを出し合い、聴き合い、祓っていく。
そうしている間に、だんだん、だんだんこころが軽くなってきて場に委ねたくなってくる。
そうして、
何の意図を持たずに、この場に身も心も委ねると、この6人の間で何が生成されるのか、
そこにおもしろみを感じるようになってくる。
これはいわば、その場に『虚』が立ち現われている状態とも言えるかもしれません。
僕らはいったい月1回の合宿で何をやっているのかと問われれば
この『虚』を立ち現わそうとしていると答えられるかもしれません。
これができはじめると、(なかなかできなくて大変なのですが)
とてもおもしろく、結果1人1人が色々なことを発見してゆきます。
今まで話せなかったことが話せるようになるし、弱みがすなおに見せられるようになるし、自分でも気づいていなかった望みや、自分自身に気づいたり、人の美しいところが見えはじめ、人の温かい情が流れこんできたりするのです。
なんとも不思議ですが、経験的にそうなっています。
僕は「聴く」ということもこの「虚」の状態であるということが非常に大切ではないかと思っています。
聴き手を通して話し手が自分自身を発見してゆく。
聴き手は何もしようとせず、ただ座って聴いている。
普段は僕は自分のことでいっぱいでなかなか難しいのですが、そうなっていきたいと思っているのですね。
合宿では6人が集うことで1人を5人で聴くというかたちになります。誰かができなくても
協力して場で聴く、場が聴くということが成り立ち易いのかもしれません。