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#25聴いてもらえる場があるということ

どうもぼんやりです。

家の庭には桜の花が舞い込み、
近所の小川に桜の花が流れてなんだか心も暖かく、幸せな季節ですね。

最近僕は茶道を習い始めました。
とてつもなく奥深い世界だなあと、まだ始めたばかりですがそう感じています。
今日は岡倉天心の「茶の本」から印象深く心に響いたものがあったので共有したいと思います。

以下引用

若し誰も彼も皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇は尚一層面白くすることが出来ると、
物の釣合を保って、己の地歩を失わず、他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。
我々は己の役を立派に勤めるためには、その芝居全体と知っていなければならぬ
個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならぬ。
この事を老子は『虚』という得意の隠喩で説明している。
物の真に肝要な所は只『虚』にのみ存すると彼は主張した。
例えば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚な所に見出すことが出来るのであって
屋根や壁そのものにはない。
水差しの役に立つ所は水を注ぎ込むことの出来る空所にあって、その形状や製品の如何に存しない.
虚は総てのものを含有するから万能である。
虚に於いてのみ運動が可能となる。
己を虚にして他を自由に入らすことの出来る人は、
総ての立場を自由に行動することが出来るようになるであろう、
全体は常に部分を支配することが出きるのである。

芸術に於いても同一原理の重要なことが暗示の価値によって分かる。
何物かを表わさずにおく所に、観る者はその考を完成する機会を与えられる
其様にして大傑作は人の心を強く惹きつけて終には人が実際にその作品の一部分となるように思われる。
虚は美的感情の極地までも入って満たせとばかりに人を待っている

「茶の本」岡倉天心



いかがでしょうか。この『虚』という概念。
僕はしびれました。美しさのあまり読み終えてしばらく空中を見つめてしましました。

さて、そしてひとつ発見があったのですが
この「虚」何か知っているぞ
という感覚があり
何かなと思うと、我が家の「合宿」でした。
月1回2泊3日コタツを囲んで只話し合う、これを『合宿』と呼んでいるのですが
6人がコタツを囲み、何のルールも設けずただ座ります。
そして心に浮かんでくること、頭の中にあることを場に出し合い、聴き合います
出来るだけ何の意図も持たずに、話し合うのです。
心に浮かんだこと、感じていることをただ話し、ただ聴きます。
判断を置いて、ただ話し、判断を置いて、ただ聴く。これを繰り返します。
そうしているうちに、どうしても持ってしまう、硬い意図がだんだんなくなっていき、場も人も柔らかくなっていきます。。。

これは『虚』を立ち現わそうとしているのではないかと直観します。
1人1人は色々あっても、それを出し合い、聴き合い、祓っていく。

そうしている間に、だんだん、だんだんこころが軽くなってきて場に委ねたくなってくる

そうして、
何の意図を持たずに、この場に身も心も委ねると、この6人の間で何が生成されるのか、
そこにおもしろみを感じるようになってくる


これはいわば、その場に『虚』が立ち現われている状態とも言えるかもしれません。

僕らはいったい月1回の合宿で何をやっているのかと問われれば
この『虚』を立ち現わそうとしていると答えられるかもしれません。
これができはじめると、(なかなかできなくて大変なのですが)
とてもおもしろく、結果1人1人が色々なことを発見してゆきます。
今まで話せなかったことが話せるようになるし、弱みがすなおに見せられるようになるし、自分でも気づいていなかった望みや、自分自身に気づいたり、人の美しいところが見えはじめ、人の温かい情が流れこんできたりするのです

なんとも不思議ですが、経験的にそうなっています。

僕は「聴く」ということもこの「虚」の状態であるということが非常に大切ではないかと思っています。
聴き手を通して話し手が自分自身を発見してゆく。
聴き手は何もしようとせず、ただ座って聴いている

普段は僕は自分のことでいっぱいでなかなか難しいのですが、そうなっていきたいと思っているのですね。

合宿では6人が集うことで1人を5人で聴くというかたちになります。誰かができなくても
協力して場で聴く、場が聴くということが成り立ち易いのかもしれません。

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