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#29 安心して今日も人は生きている。
霜止出苗(しもやみてなえいづる)
ポツポツ降る雨もどこか陽気。
遅霜を恐れてゆっくり地中から顔を覗かせていた新芽ももう安心とばかりに伸びる季節。
ぼく、おしゃべりは週末東京に行っていた。
生まれ育った東京。
ここ三重とはやっぱり生活も人もリズムが違う。
あの非・日常空間。
いや、東京近郊に住む人にとっては当たり前の光景かもしれない。
満員電車
満員電車ほど信頼と不信、安心と不安が入り乱れた場所はない。
数年ぶりに酷く混雑した新宿行き京王線に乗車した。
見知らぬ乗客に四方八方をゼロ距離で逃れる術もなく囲まれ、もまれ、押される不快感は想像を絶するものがあった。
誰もが自分の足の置き場を必死に確保しようとし、揺れに備え吊り革や手すりに我先に手を伸ばすしかない状況。
どんなに元気な人でも、あんなに無理な体制を強いられれば体が疲れ、そのうち心だって随分消耗してしまうだろう。
ほんの小一時間の乗車であったが、人間にはあまりに向いていない環境だと強く感じた。
あれでは他人と通じ合おうという気持ちよりも遥かに大きく人に対する不快感が上回り、不快感を与えてくる外敵に対して身構えるクセがつき、やがて人間不信にしかなりようがない。そんな気がした。
そういう異常な環境にいながらも、乗客はどこかで確実に人を信じ、人のなかで安心もしている。
どういうことか。
本当に心の底から人のことを恐れていたら全く素性も知らない運転手が運転する電車だってバスだって乗れないだろうということだ。他の乗客と至近距離で過ごすこともできないだろう。
もちろんこれは表層の意識下の視点ではない。
けれども、人はどこかで人とともに生きていることをしっている。
しかし、そこがわからなくなる人。
大きく人に委ねきっていながら委ねるまいと一生懸命にもなる。
つくづく人は不思議な生き物だ。
暮らしのなかでも、ほんの些細なことで不安や不信が芽生えるけれども、意識しないほとんどの時間、お互いに気がつかないところで安心しきって、信頼しきって、委ねきって生きている。
そちらばかりに目がいくようになればなるほど生きることは愉快になるだろう。
だってもとから生きるのは愉快なものだから。