今、振り返る19世紀からの思想の歩み(3)
あらためて思う。体制が変わっても、根付いた習慣、慣習はなかなか変わらないものだ。肝心の体制変革すら、表向きとは異なり、そう簡単に変わるものではない。戦後も80年近く経って、こんなふうに思うとは、まさに「思いもよらない」ことだ。
前回述べた松川事件だが、下々は黙ってお上に従え、とか、知識人、文化人は、法律の専門家でないから、あらぬ方向に議論を持っていくとか、戦前を引きずっていることが見え見えに思える。「専門家」なる言葉に弱いのは致し方ないところとはいえ、上から目線、権威主義が許され、容易には収まらない。(今年、高校野球の夏の甲子園大会は慶応高校が優勝したが、彼らが坊主頭でなかったことに、かなりの批判が集まったらしい。もと運動部員だったぼくとしては、えっいまだに、とあきれたものだ。)
これは今日につながる序列主義、力比べ、序列好きと重なる。ぼくらの若い頃には競争そのものを否定する風潮が一定部分を惹きつけたことがある。しかし、競争を糧とする競技は言うまでもなく、鍛えられた者同士が力比べをすることや、争うことを否定すれば、支持は集まらない。ライバルあっての競技なんであって、そこに惹きつけられる人々の意識を拒否することなどお笑い種にもならない。
問題は、万般にわたって、争うことを良しとしない安手の思慮不足だ。それを人間的と歓迎するのはいわゆる「良識」に弱い人たちが陥りがちの弱点だろう。狭い決着論は、今ならSNSがあるから、更にわけのわからないことになる。
かつてカール・シュミットの戦前・戦後の議論、正しい敵論のことにちょこっと触れたことがあったけれども、あらためて競争をとらえて見よう。教育もあるが、スポーツならオリンピックが典型的な例に当てはまる。少し長くなるけれども、この際「競争」の本質を探るうえで考えて見るに越したことはない。夏のオリンピックに関して、粗野になるけれども考えて見たい。
クーベルタン男爵(仏、1863~1937)を持ち出してみると、彼が願った平和の道とは逆行する進行をした時代が続いたのである。1908年の第4回大会(ロンドン)から、国代表としての参加すること、入場式には国旗を先頭にすることが始まったが、そうでもしなければ財源的に息詰まるからである。しかし言うまでもなく、倫理的、紳士的、平和的な道を、スポーツという文化の国際交流によって進展させることへの揺るぎない思いに立つものだった。基本的には個人個人の努力であり、成果である。あえて言えば、貴族的な、望ましい理想だったと思う。
しかし、当の選手には、過剰な争いを呼び込む動機となって、国家の争いの火種にもなったのである。だから、ロンドン大会(1908年)の時、セントポール大聖堂の主教から、勝つことでなく参加することが大切と諭され、それがクーベルタンのあの有名な「勝つことでなく、参加することに異議がある。」というオリンピックの理念となった。いわく、「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うこと」、「平和なよりよい世界の実現」に向かうのであって努力こそが大切、というのが本来的な認識でなければなるまい。
それなのに何故大国間の争いに巻き込まれ(1980年第22回モスクワ大会、1984年第23回ロスアンゼルス大会)、テロ事件があったり、場合によっては、おびえたり、差別したり、国や肌の色が違うとケンカするようなことなるのだろう。
例えば1936年のベルリン大会(第11回)で理想が根底的に変わる企画があったが、その中には今も引き継がれているものが数多くある。それらをよく見つめてみると、次のことが言えるのではないかとぼくは思っている。(それは、現代をとらえる上で欠かせない視点でもある。)
平和を求める理想が広く動き出した時代は、少なくとも19世紀末にはハッキリと顔を見せている。「世界」が徐々に関係性を深め、国家の対立抗争だけでなく、「階級対立」が種々の影を落としたのだが、哲学者や理想家、宗教家たちの中には、学校教育という伝える作業に終始せずに、人類という大きな目標を意識して、考察を深めようとする人々があった。そこに有識者の使命の根拠を置くことがあった。汚れを嫌う潔癖な道義に沿おうとする有識者は、市民の中にも若人たちの中にも見られる。貴族的、紳士的な世界、品格のある世界に向かって行こうとしたと言ってもよいであろう。
しかし、1936年のベルリンオリンピックになると、開催国のヒットラーにとっては、まさに政治的に利用価値が高く、国家の実力を見せつけるものに他ならなかった。ドイツを世界の冠として、特にユダヤ人や黒人は言うまでもなく、いわゆる有色人種を差別する世界支配を目指す手段として準備されたのだった。これは領土拡張に血道を上げる時代が、先進国の中軸たる性格になったものと言えるだろう。
帝国主義の時代はすでに始まっており、第一次世界大戦(1914年~’18年)は言うまでもない。しかし、そのめちゃくちゃな政争や戦争を反省する取り組みや、思想(哲学)の猛省も行われた。だが、まだ欠けていたのである。何かが決定的に足りなかった。
ドイツではヒットラー、ソビエト連邦ではスターリン、イタリアではムッソリーニ、スペインでは、日本では…等々だ。それらに対する抵抗を命がけで行っても、全体主義の登場をどうすることもできなかった。単一の価値観が広宣され、それを広く支持する民衆の存在があったのだ。自由な思考、批判的な考えをする人々を、弾劾や排斥の嵐が襲う。その一方的な強風が圧倒的な力をもって恐怖の時代を悲劇的にリードしたのである。
第二次世界大戦は連合国の戦勝となったが、原爆を始め、言語に尽くせぬ悲惨な結果を伴うものだったことには変わりない。敗戦後、わが日本にとっては、「朝鮮戦争」なる、冷戦の真実を見せつける戦火に経済再興の道を取る時を刻んだ。聞こえの良い再興ではなかったのである。戦争に関わりつつ将来の舵を取っていったのである。
思うのだが、ぼくたちはもっともっと1950年代を知らなければならないだろう。1954年3月1日の第5福竜丸事件(米国の水爆実験の犠牲だ)に見られるように、米ソの激しい冷戦が万人に極まり、原爆や水爆の実験が頻繁に行われた時代の流れ。この頃の米国やソ連のあり様は、現在のぼくらには信じられない世界だった。男ばかりだったし、この時期を抜いて「キューバ危機」(1962年10月)の理解などできないだろう。今あるのは歴史あってのことと大きなことを言わずとも、キューバ危機に対する無知や無関心など、恐ろしい話だ。しかし、今は擱(お)く。
日本は、平和をうたう戦後復興をアッピールする最高の機会として、東京オリンピック(第18回、1964年10月10日~24日)を成功させた。閉幕式に見せた世界の選手たちの混じり合った行進など、感動の極致と言っても過言ではなかった。
ここでは、クーベルタンの言葉が繰り返されたし、オリンピックが文化の先端を切り開く花道になったような明るさを投げかけていた。しかし、それとても時代を代表する主要な流れではなかったのだ。すなわち、スポーツを利用していく世論操作、政治的動力の前に勝ち負け、メダルの数等がひとり強調されて様々に語られる。
そして1980年の第22回モスクワ大会、1984年の第23回ロスアンゼルス大会である。筆頭に来るのは、国家間の政治的争いであった。
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