今、振り返る19世紀からの思想の歩み(2)
何かに左右される。そこが問題の根だと思われる。ぼくたちは、何かに頼って過ごしているのである。それ自体は、決して責められることではない。むしろ頼るべき人や仲間がいない状況は、極めて不自然で、望ましいことではない。そのことが、人の行動や考え方にも及んでいる。
それだけに、噂レベルの話でも馬鹿にできないものがあって、大いに注意を払う必要があるだろう。特に情報を提供する側になる場合だ。しかし、救いがたいことと思われるのは、提供者側が、注目されることばっかり、言い過ぎならば、注目を優先することだ(誰に向けて?)。要するに、自分(たち)の言うこと、拾ってきたことに、視聴者を惹きつけ騒いでくれることだ。(ヒドイ場合はヤラセまである。)
昔(それほど遠くない戦後)ならも少しマシだったが、そう言っていいならば、今は劣化に劣化を重ねて普通になった感のあるような・・・、賢くないものを「大衆好み」とみるとしか思えないものが多くなった。問題が深刻なのは、そういう傾向があるとすれば、報道されるものの中身や、傾向というものにかなりの偏りが生まれる。これは避けられない。
そして、時間が経つほど「考える力」を失った、劣等国民化が進むということだ。仮に問う、生まれた時から、そうした情報環境が当たり前だった人々に将来を支える力があるだろうか。まぁ、ない、と答えても、ある、と答えるより、いいと思えるかもしれない。
しかし、暗い見方ばかりで憂いていると思われても困る。日本社会はそう簡単に「考える力」を若者や子どもたちから奪えない。前回、子どもたち、若い人たちを指して、「上から注入されるのではなく、自らつかもうとする情熱は誰にも与えられている、と考えることができる。」と書いたのだが、確かに自らの可能性を開いてゆく一人一人の生徒たちである。その成長に力を注ぐ学校や教育者たちも少なくないだろう。それだけに今、その若者たちを単純なふるいにかける制度や、上からの一方的な注入教育にかけて、子どもの可能性をせばめ、希望を失わせる傾向を根本的に変えるかどうかが問われる。
国レベル、行政レベルのどでかい問題と言ってよいと思うが、にもかかわらず、健康な、活き活きした学校生活と学習活動を過少評価できない。むしろ彼らの存在こそ、改善のヒントをたくさん与えると考えるのである。早い話が、行政者も世代交代があるから変わる(笑)。希望的観測か!?
ただ、傾向としては、繁栄を謳歌しているような社会、最先端の映像や科学技術を誇ってきた日本の、戦後社会の最大の弱点をここにみるのも、やむを得ないところであろう。
それというのも、重く貴重な、抜き差しならない内容や課題を現代に突き付けているのは、デモクラシーであると考えるからである。不完全だからそう指摘するのかというと、それなら話は簡単で言葉にあまり困らない、と言うしかない。実際、耳を傾けるべき有益な研究や指摘が為されている。
しかし、ぼくにとっては方向を変え、話はもっと深くて広くて複雑なものだという、歴史的な認識に基づいてみたいのである。
本当はもっと前の時代の政治的、経済的、軍事的そして思想的問題から話を起こさなければならない。それは分かっているのだが、今は先ず日本それ自体、そして米国、欧州、東欧、アジア特に中国の第2次大戦後から理解したい。
ぼくは、「墨塗りの教科書」(昭和20年9月)や「仮とじ教科書」(~昭和26年)を知らないのだが、小学校に入る(昭和29年のこと)と、学級会や上級学年だと討論会、生活作文?などがあった。校庭に並び、校長の話を改まって聞く朝礼(「朝の会」と呼び方が変わる)はあったけれども、全体的に生徒はかなり自由だったような気がする。そういうものだと思って過ごした。あちこちで「民主主義」の世の中、と言われても、あぁそう、前はそうじゃなかったんだと思うだけだった。小さい子だったし、身の回りで戦中のことを聞くことなどなかった、と言ってもそう違ってはいまい。大人たちはぼろ屋に住んでいても、問題になるのは今の生活だし、食べ物だし、少しでも明るい毎日をと思って懸命だったのである。
嫌な時代のことは胸いっぱいに詰まっていることだけど、少なくても子どもの前でそういう話をする人はいないし、そう言って良ければ、できれば「戦争」時代にあったことは思いだしたくない。それに、戦争につぐ戦争だった時代に別れを告げ、今はもうGHQの管理下、「自由」である。
ただ、戦前の日本にもその「自由」や戦後言う「人権」を基本とする思想に立った人々、そうした流れがあった。つぶされたのであるが、世間の圧力がどれほどであったか、指摘だけはしておかなくてはならない。
今は戦後に話を絞るわけだが、ドイツが降伏する頃から、大戦後のことを周到に考慮して様々な駆け引きが行われた。日本はどうなったか、かなり知られているように、「日ソ中立条約」(1941年、5年有効)があるにもかかわらず、ソ連は1945年8月8日これを破棄(ヤルタ密約があった)、「満州」そして北海道を襲ったのである。
米ソ冷戦時代はもう始まっていた。米国には、原爆も含めて、事実が伝えられず歪められ、恐ろしい「赤狩り」旋風が吹き荒れたことも良く知られている。
日本がGHQ(General Headquarters)に占領され、アメリカ合衆国のマッカーサー元帥が連合国軍最高司令官(SCAP)になった。GHQは、「ポツダム宣言の執行」が本来の役目である。しかし、事実上アメリカ合衆国単独の日本国占領機関であって、日本の外交関係は一切遼断され、外国との人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた。1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。
さぁて、ぼくにはこの頃のことを、どう身近に引き寄せて考えることができるだろうか。身の回りの思い出をかき集めても、到底届かない事柄だ。
そこで思う。戦後(1949年)の鉄道に関わる一連の事件のことである。「松川事件」、「下山事件」、「三鷹事件」だ。他にも数え上げられるが、代表的には、時を置かずして起きたこの三大事件を、思いだす。もち論ぼくは生まれて間もなく、その事件についての記憶はない。しかし、「松川事件」は著名な作家や知識人たちが声を上げた裁判が長く続き、1961年「無罪判決」が出たころは、さすがに大騒ぎとなった。事件の記憶の始まりだ。えん罪という言葉と共に強く印象に残った。
どういうわけか、学生時代に、広津和朗という名だたる作家の松川事件裁判の調査を古本屋で見つけた。そのせいか、多少調べてみたことがあるのだが、ぼくには戦後社会を知る大きなインパクトがあったのである。大部分の人は細かいそこまでは知らないし、考えて欲しいと思うことがあるので、簡単に申し述べておきたい。
広津は、事件の調査を雑誌に連続掲載して、えん罪が作り上げられたことは疑いなしと確信していたが、新聞やラジオではまるで有罪が立証されたかのような報道がなされた。この状況を変えるには、もっと大衆の中へ入ることがもとめられるのだと彼は考えた。しかし・・・
眼が澄んでいるから無実だとか、文章に嘘がないから無実だとか、文士の頭はなんと単純で甘いのであろう。裁判のことは裁判官にまかせて置くがよい。解りもしない柄にない口出しなどするから、とんだ物笑いになる、という戦前並みの、お上頼みの理解に変化は起こらない。
広津らは、一時、四面楚歌のような格好になった。広津はこのような揶揄中傷を浴びせかける人達が法廷記録を一行も調べていないことは明らかとみて、彼らとのやり取りに時間を費やすことを控えた。しかし、広津らの裁判批判に対しては、裁判所側からの攻撃も激しく、最高裁判所長官をはじめ裁判官の中から、「文士裁判」、「ペーパー・トライアル」、「人民裁判」などと言われ、あげくは「法廷侮辱」だなどとも言われたものである。
こうしたことが「戦後」を形作る忘れられない記憶としてとどめられなければならない。そこに見えてくるものは何か。次回で述べたいと思うところである。
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