「力対力」=ナチス時代の「友-敵理論」、政治だけじゃない、教育にも!
「力の勝負」発想から抜け出すのは、思いのほかしんどい。自分が接してきた学問にも多分にその傾向が見られるからだ。無論、学問である以上、あぁそうかと思わされることが多々あるのだけれど。
前回、学校が「筋道の通った考え方や知識を、特定の恵まれた人ではなく、一人でも多くの人々に伝え、身につけさせる」ためにあるのに、現実は「上の指示をやりとげるだけの養成機関」になってしまったようなことを書いた。それを幻想と理想のロマン主義だと思う人は少なくないだろう。
頭から否定する気にはならない。しかし、一本気にそう言っておればよい、というわけにはいかないので、そのことを少し。
学校は教育行為を行う場なのだが、以前から、国家や行政、果ては企業の要請、反対勢力や階級の要請を受けてのもの、として理解する人々は少なくないだろう。筋道立った考えとか、道理とか、そういうものは見せかけととらえることすら可能になる。けっきょく誰の利益になるのか見極めることが大切だと、ここにおいても、「力と力」の闘いに通じる。
筋道や道理という幻想から離れて、「役に立つ」人としての知識、技術、科学を身につけさせる場だと割り切れば、ことは簡単に思えるが・・・。
ぼくの学生時代には、権力や上からの圧力に対抗する考え方や実践が「ラジカル」だと見なされた。今だってそう考える人がいるだろう。根源的、だから真っすぐに急激。ラジカルだ。大学紛争を起こすうちに、「東大解体」などの言葉が躍ったし、「造反有理」という毛沢東語もキャンパスを躍った。
高校に入って最初の中間テストの後だった。正解を解説する現代国語の若い女性教師に異論をぶつけた。うまく対応できなかった先生は、昼になったら職員室に来るように指示した。職員室とは穏やかではないのだが、国語主任という30ちょっとの男性教師がこっちに来いとぼくを呼んだ。後で知ったのだが、空手の有段者で教育大(今の筑波大)出身、怖い先生ナンバー1だった。だからなのだろう、学芸大出たばかりの若い女教師を守るには、一言脅せば十分と思ったに違いない。(ちなみに何十年とかかったが、その先生とは渋谷で一杯飲んだり、ぼくの公演に駆けつけてくれるほどになった。)
正解に疑問があるから質問したと言ったら、椅子に座った主任教師は、先ほどの正解を繰り返した。そこで質問を言いかけたところ、立ち上がっていきなりどやしつけたのである。「教師がこれが正解と言ったら正解なのだ。」と。その対応に呆れて、「もう一度仰って下さい。」と冷ややかに言うと、同じ言葉が返ってきた。これでは言うのも無駄、とサッサと職員室を後にした。そこに居合わせた先生方は、彼に立てつくなんて、面白い生徒が入ってきたものだ、と密かに話を交わしたそうな。
翌日だったろう。今度は理科大出身の担任に廊下に呼び出され、なんやかんやと退学を迫られた。その時のぼくの答えが、「やれるものならやってください。」だった。担任はそれを聞いて「すごすご」と引き下がった。
次は、親父の呼び出しである。父は言ったそうな。「先生も私も戦争の同世代だから分かるでしょう。若い頃はそういうもので、何かと反抗的になるものですよ。」云々と。
ラジカルだったと言えなくもないが、たかが高校生。脅せば言うことを聞くと思ったのだろう。こういう権威主義は、今だってキッパリと拒否するしかないのだが、教師は他にやりようがなかったのかと思ったりする。
ぼくのクラスに来るのは気が重いと、女性教師が言われたそうだが、あれやこれや今思うと、来たばかりの先生には、気の毒なくらいに直線的だったなと反省することもある。
その頃はと言えば、学費をめぐる慶応大や早稲田大の紛争が始まり、大学に入ると、上からの縛り付けに反発する学生が増えて、東京大、日本大と、大きな「学園闘争」が一定の大学を襲ったのである。良く知られていよう。
話がそれた。「幻想と理想のロマン主義」の話だった。学校教育にあって、便宜主義や権威主義でいいのかどうかだ。また、その反対に公教育が「民主的」になるよう一生懸命努力し、私塾も含めて教育に勝手を許さずに公教育を民主化すればよい、という考え方はどうかである。
1988年のこと、「公教育と私塾」と題して論文を書いた。言うまでもなく、ゆとり教育(これはこれで問題)以前だが、あらためて公教育論を批判的に取り上げざるを得ない時代で(タイトルは、「問われる『教育の自由』の理念」)、それを論じ、ぼくは「私塾の伝統受け継ぐ学校」とあらためて一章を立て、色々話をしている。
その中で具体的には、成蹊学園の創設者中村春二、跡見学園の創設者跡見花渓、二階堂学園の創設者二階堂トクヨたちの、傾聴せねばならぬ力強い言葉を取り上げた。(『月刊私教育』108号所収。故押村敬子さんが構想し、編集した特筆に値する月刊誌。)
彼ら創立者が胸に描き、実践した教育への数々の理念や思いは、理想やロマンなくして成り立ちがたいものばかりだし、その意味だろうか、最近では成蹊大学、大学院出身で、同大学の学長を務められた亀嶋庸一氏という方が、いわゆる大学格差なるものを一笑に付するような、非常に優れた近代政治やナショナリズム等の研究を行っている。
具体的なものをたくさん見てきたのだから、昔の判断から思想的な前進、いわば弾力性のある判断をする年齢になった、と思っている。
「力には力」というこれでもか式の考えに陥りがちなのは、上に立つもののせいだとしても、考え方に責任を与えられた人、先生とか思想家とかが、無視されているから困った事態になっているのだろうか。
いやいや、識者があちこちで解説したり、口角泡を飛ばしているではないか。しかし、近年では、思想や哲学分野の人が、時の政治に大きな力を持った例を忘れるわけには行かない。ナチスのベルリンオリンピックではないが、「世界」はその影響を拭い去れずにずっと来ているのだ。
ハイデガーは有名だが、ここではカール・シュミット(1888年~1985年)だ。『政治的なものの概念』(1933年、岩波文庫に翻訳がある。他にも訳書少なからず)で展開された主要な議論の一つは、「友-敵理論」で、政治とは味方と敵を区別する営みだとして、強力なイデオロギー力を発揮した。多くを語る必要もなく?帝国主義、植民地主義、領土拡大等のぶつかり合いに役立つ議論だ。私らのこの世界が、こうした考え方にいつまで従えるものだろうか。(とはいっても、彼の議論は簡単に蹴飛ばせない先見的なものがあったりする。宗教的な理解も問われる。)
シュミットの名を出したが、彼の戦後の議論も考慮しても、それは、枠組みから言うと、西欧古代から綿々と続く思考の後、思想やら哲学やらの後を受けたものなのであって、これはぼくなりにまとめ上げるテーマだろうかと思うようになった。もちろん数行で済ませるわけには行かない代物なんだけれども(笑い)。
(追記)シュミットは『パルチザンの理論』(1962年の2公演を元にまとめられた)も合わせておきたい。’33年とは時代状況が全く異なる。今の対ゲリラ・テロ戦争の必然性を19世紀の初めから論じ、非常に画期的な洞察と言えるであろう。見逃すことができない、考えさせられる議論が展開されている。(2023年10月14日)
思想や哲学の側から、現実の政治に大きな影響を与えた考え方や判断がないとは言えない。よくよく見れば、今の政治・行政が思想・哲学を抜いたものだ、とは決して言えないのである。昔を振り返り、その負を克服しない識者が多くなっては困る、と思うのである。
(公教育と民主化については、これまた簡単ではないので後日に回します。ご期待?くださって、お許しください。)
和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com までご連絡ください。お待ちしています!